Column

2019.04.11 Thu

ナイロビ旅行記(1)ツアー概要、毎日の往復

<ツアー概要>
 
2019年2月末から3月上旬にかけて、ケニア・ナイロビに行ってきた。普通のケニア旅行ならば、サファリ(これ自体がスワヒリ語で旅行という意味)をして野生動物を見て、というのが定番コースだろうが、僕は十数日の滞在中にライオンにもサイにもキリンにも会わなかった。市内にあるナイロビ国立公園の脇を車で走りながら夕刻にダチョウを一度見かけたきりで、他に会った動物は滞在したお宅の犬と猫たち、それから部屋の壁にずっといたヤモリくらいだった。
京都を中心に活動するユニット、ふちがみとふなとと僕は「と」を一個増やした名前で2015年からライブを続けている。夏の西院フェス・冬のアバンギルドというのが定例だ。2016年アバンギルドでの「ある冬の夜に」にいらして、声をかけてくださったのがMari Endoさんだ。彼女は夫のOtiさんと共にナイロビに住み、美術を中心にケニアと日本のさまざまな文化交流をコーディネートしている。ご自身も版画を制作される。
日本語を大切にした音楽からすぐには想像できないが、ふちがみとふなとは1980年代後半、それぞれがアフリカ放浪の旅をしている時に現地で出会い、日本に戻ってきてからユニットを結成した経歴を持つ。Mariさんはその頃からのふちがみさんの友人でもあり、彼らはすでに2016年に第一回の「Homecoming(今回のイベントのタイトル)」を行っていた。第二回に向けて参加アーティストを増やすべく、名前が挙がったのが僕だった。Mariさんはすぐにでも第二回のイベントを開催したかったのだが、その後ケニアでは大統領選に伴って政治・治安のなりゆきが不透明になったため時間がかかり、ようやく今回のスケジュールを決められたのが2018年の春だった。
 
ツアーの概要は、2019年3月2日(土)日本大使館内のJapan Information & Culture Centre(広報文化センター)ホールでのライブ、3月3日(日)日本人が経営するカフェChekafeでのライブ、そしてふちがみとふなとが帰国した後の3月9日(土)ナイロビに隣接したキアンブ(Kiambu)という地域にあるカフェThe GOAT Social Clubでの僕単独のライブ(エマソロライブ)を行うというもの。その他に、市内のレコーディングスタジオSupersonic Africaでのセッションも行った。このうちChekafeでのライブと後に記すもう一件の企画については、いろいろ深い経験をさせてくれた紆余曲折があるのだが、とにかくも予定されたすべての活動を好評の内に終えることができた。
 
<滞在したお宅>
 
滞在させていただいたMariさんとOtiさんのお宅は、ナイロビ中心部から30kmほど離れた住宅地にある。平屋だが美しいお宅で、敷地の半分は庭だろうか。お宅の周りにはその後ナイロビでよく見かけることになる木肌の白い木(名前は何だろう)が立ち、庭にはハイビスカスやパッションフルーツが植えられていた。家の中は石の床になっていてとても涼しく、お手伝いのVeronicaさんが毎日モップで水拭きするから、とても清潔だ(言っておくが彼らは我々と比べて特別にリッチというわけではない)。公営の水道は止まったり、不当に高い料金を請求されたりするので使わず、5,000リットルの水タンクを庭に設置して民間の会社から月に約一回配達してもらい、トイレなどには別の雨水タンクの水を使い、そして飲料水は買っているそうだ(スーパーでは20リットルの大きなペットボトルに詰め替えで水を売っていた)。水道民営化後の日本を見るようだが、道でも大量の水タンクをバイクにくくりつけて運ぶ人を始終見かける。「水は、問題」がOtiさんの口癖のひとつだ。そんな苦労を知らない僕には、Mari-Oti家の滞在はとても快適。朝7時に明るくなると同時に聴こえる鳥の声で目を覚まし、ごはんを食べてでかけて、夜は時差(6時間遅い)の関係もあって早めに寝る、というありえないほど規則正しい生活をした。後半は結構乱れたけど。
 
<毎日の往復>
 
Mari-Oti宅とナイロビ中心部を往復する車から見る景色が僕の初めての、そして最も多く目にしたケニアの風景となった。上手く行けば40分、渋滞すると3時間。コンテナを積んだ長距離トラックやバスには思い思いの塗装がされていて、見ていて飽きない。途中何カ所かで、トタン屋根の小さな店が増えたと思ったら、道ばたに大勢の人が集まっている。荷物を持った人、手ぶらのひと、普段着の人、派手な服のひと、本当にいろんな人が何をするでもなく立っている。この後ナイロビのいたるところで、時間帯を問わずこの「人が集まってただ立っている」のを見るのだが、この風景は僕にとってアフリカそのものと言ってもよいほど印象に残っている。実は、ここは地域の交通の要所であり、人々はマタトゥ(中古の日本車を改造して小型バス化したヴァン)や、映画「マッドマックス」のように布で顔を覆ったバイカーが運転するタクシーバイク(二人乗り、時には三人乗りする)を待っているのだ。「何をするでもない」と見えたのは僕の側に彼らを「見る」状態がなかったからで、日が経ってすこし僕と彼らの時間の流れ方が「同期」してくると、彼らはドライバーと交渉したり、物を運んだり、おしゃべりしたり、誰もが自分のことを普通に行っていて、本当の日常の時間がそこにあるのだと分かってきた(たまに、本当に何もしてない人もいる)。日本に戻ってきてナイロビの記憶も薄れたなあと思っていたある日、大勢の人が同じ方向へ一斉に歩いているから何事かと思ったら、ただの通勤ラッシュだった。その行動が不思議に思えるくらい「ただ立っている人々」は知らないうちに僕に強い印象を与えていたのだ。
 
ナイロビから30km離れればかつては都会ではなかっただろうが、今やこの幹線道路沿いは、完全に普通の郊外である。セメント工場、鉄工所、SGR(ナイロビーモンバサ間を結ぶ、中国資本によって作られた最新鉄道)の高架、遠くにはきれいに並んだマンション群まで見える。沿道にある巨大ショッピングモールは、完全に「イオンモール」だ(人工の滝まである内部は、それ以上かも)。しかしそのすぐそばで、牛の群れを連れた人がいたり、畑で働く人がいる。そして、日本で言えば国道級の道なのに、人が思い思いに横断する。道沿いを歩いている人も、車との距離がすごく近い。そして意外に、トラブルにならない。渡る方も渡られる方も、ぎりぎりのところで上手に避けてゆく。この「ぎりぎりでトラブルにしない力」も、後々身をもって感じることになる。
 
あと、車の窓から見えたもので(なにせ、これが僕のナイロビにおける基本のものの見方なのだ)印象に残ったものは、広告看板。清涼飲料、車、住宅、病院、旅行、あらゆるものがキャッチーなフレーズと共に宣伝されている。そしてその雰囲気が日本と比べて、なんというか、「前向き」なのだ。僕が一番覚えているのは、優しそうな高齢者夫婦の写真を使った「引退後は、資産運用をしましょう」という看板。「資産運用を我が社に」とかではなく、広告を作っている側も本気で「資産運用って、大事ですよね!」と語りかけているような雰囲気は、どことなく昭和の日本に通じるものがあって、ひょっとしたらこれが経済成長ということなのかも知れないと感じたのだった。間違っているかもしれないけど。
 
ナイロビ市の中心が近づくと渋滞が激しくなる。車が少しでも止まるとすかさずやってくるのが、物売りのひとびと。バナナやプラムや水はわかるが、ネクタイや車のワイパー、さらには絵画まで売っているのはなぜなのか(でもネクタイは売れていた)。テニスラケットも売っているのかと思ったら、網部分に電流を流して蚊を取る(焼く?)アイデア商品だそうだ。交差点はラウンドアバウトだから信号はない。ここでも車同士は、ぎりぎりまで止まらない。盛大にクラクションを鳴らしながら、しかしなぜか事故にならない(何度か事故も見たが)。そうこうして、スタジアムの角まで来たら、いよいよナイロビ市内だ。
 
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