Column

2019.04.21 Sun

ナイロビ旅行記(4)待つ。

<待つ。>

 

ふちがみとふなとさんが日本に出発する日は、滞在しているお宅近くの幹線道路で工事労働者の示威行動があり、一時道路が砂利で塞がれて警官が出動する事態になった。空港に行かなければならない時刻が近づく中、二人はゆうゆうと散歩したり音楽を聴いたりしている。さすがだ。そもそも今回のツアー中、ケニアだろうが日本だろうが変わることのない、二人のキャラの安定感には何度も驚いた。特にすごいのはふなとさんだ。滞在中はほぼ犬と遊んでいた姿しか思い出せないのに、ライブ写真を見たり音を聴いたりすると、見事な存在感を発揮している。僕も海外に行くとその地になじむタイプだと言われるが、二人の自然さには到底及ばない。結局、ギリギリ(またギリギリだ)のタイミングで交通は再開し、二人は帰っていった。彼らがお土産にArrowroot(クズウコン)のチップスを大量に買い込んだのを、僕もマネさせてもらった。

 

彼らが出発した日をまる一日休みにした後で、僕とコーディネーターのMariさんには次のミッションがあった。ライブイベントに出演できなかったクオナ・アーティスツ・コレクティブで、もうひとつ実現させたい企画があったのだ。それは、僕のアーティストトーク(トークイベント)。日本でも東京、大阪や山形で何度か行っているように、音楽についての僕の考え方を楽器を弾いたりDJをしながら語るというものだ。テーマは「アフリカ音楽はいかに僕の音楽に影響をおよぼしたか」。アフリカ人にアフリカ音楽のことを語るという、考えようによっては無謀な企画だが、僕にとってアフリカ音楽はレゲエと並んで1980年代=10〜20代のころ、流行りの音楽がつまらなくてどうしようもない時に熱く聴いた音楽だったから、もしアフリカに行くことがあったら必ずやってみたいと、以前から思っていたのだ。

 

クオナの中心人物の一人Kevin Oduorさんに話をもちかけ、コレクティブ全体としての返答を待つことにした。音楽イベントへの出演が実現しなかった反省から話の進め方を周到に計画し、「ひとつのことが終わってから次の課題に移る」ことにした。つまり、問題のイベントが終わって週が明けてから話を始めたのである。例によってコレクティブ側からの返事はいつ来るか分からない。できないかもしれないし、逆に「明日やりましょう」と言われるかもしれない。だから、スケジュールが空いているからとナイロビを離れて一泊旅行することなどもできず、この先数日間は「市内待機」するしかない。
ただ、僕の気持ちは暗くなかった。旅先の休日なんだから、することはアドリブで決めればいい。とりあえず1〜2日を市内観光に費やすことにして、僕の「通勤」範囲である滞在先とナイロビの往復ルートの範囲で、行きたいところを考えた。

 

<ケニア国立博物館>

 

普通ならば最初に上がる候補は、ナイロビ国立公園だろう。Mariさんは訊いてくれる。「エマーソンさん、動物見たいですか?」出発前にはサファリに興味はないですと言い切っていたものの、一瞬ブレて、高層ビルを望む草原でキリンにニンジン?をあげる自分を想像してみる。「えっと…、やっぱりいいです。」僕もなかなか、自分のタイプを変えられない人間である。そして僕にはそれ以外に、ケニアに行ったら必ず見たいものがあったのだ。それは、ケニア国立博物館にある初期人類の化石。ケニアとその周辺国にまたがる大地溝帯(巨大な地殻の割れ目)沿いの地域は、人類がその祖先から進化した最も古い時代の化石が多く発見されている、人類の歴史を考える上で最も重要な地域なのだ。MariさんOtiさんがクオナで打ち合わせをしている間、僕はナイロビ川沿いの公園にある博物館にいることにして、いよいよその化石を見に行った。

銃を持ったセキュリティに緊張しながら館内に入ると、特別な一角を仕切った専用の部屋に、その化石たちはあった。そしてその隣には…上手とは言えない大草原の書き割りをバックに、在りし日の彼ら一家の等身大模型が並んでいた。…ここは奈良や大阪の民族博物館か?ベタなジオラマを作りたくなるのも人類普遍なのか?僕は好きでしたが。結局僕にとって博物館で一番良かったのは貴重な展示ではなく、らせん階段の中央に吊り下げられた、普通の人々の昔の暮らしを伝えるたくさんの写真だった。写真には独立(1963年)前後のものが多く、「国」になってからは年の浅い彼らの歴史を、大事に語ろうとする姿勢が感じられた。

 

<食べもの>

 

ナイロビの僕が「待ち」モードに入っている間に旅行記の方も少し立ち止まって、滞在していたお宅などでいただいた、日常の食べ物のいくつかを挙げてみようと思う。

 

ウガリ:トウモロコシ(と言っても白く、甘くない。多分こちらが原種なのだろう)の粉を練ったもの。手づかみで取り、伸ばしてスプーン型にして(難しい)、おかずを挟んで食べる。これ自体に味はないが、見た目は蒸しパン、暖かい粉物という意味ではうどん、おかずとの相性の良さは米、という最強の炭水化物で、僕は大好きになった。街の飲食店では、メイン料理だけがメニューに書いてあり、これと下記のスクマは自動的についてくる。ウガリの他に炭水化物としては、チャパティもある。

スクマ(あるいはスクマウィキ):ケールの葉を炒めたもの。ほぼ必ずウガリとセットで出てくる。日本の漬物、あるいは韓国のキムチのポジションに近く、ウガリはもちろん何にでも加えることができて、塩味加減を自分で調節する。後述する「ベンガ定食屋」でも、魚の炊いたのを頼むとスクマ&ウガリがついてきて、全部で300ksh(約300円)だった。

ギゼリ:豆ととうもろこしを炊いたの。味付けは塩だけというのに豆自体に香りと味があって、とても美味しかった!
豆は毎晩のように翌日分を水につけておく。ギゼリの余ったのを翌日キャベツと一緒にカレー味で煮るとかも美味しかった。
ギゼリに限らず豆料理にはひよこ豆のカレーなどバリエーションが多くて、これを食べていればタンパク質はOKという感じがする。ただし美味しいからと毎日大量の豆を食べていたら、前半の五日間くらいまではお腹が張って、トイレに行くと腸内をさらっているような、ある意味ヘルシーなものが出続けた。

ポリッジ(お粥):ウジと言って、ヒエとキビを中心にした雑穀の粉を熱湯で溶き、レモンの汁と砂糖で甘酸っぱくして食べる。ご飯とお菓子の中間的な位置にあり、美味しかった。

 

とにかく雑穀と豆が普段の食生活の中心である。「雑穀」という言葉自体、久しぶりに使った気がする。僕の父方の祖父は北海道で雑穀の卸売業をしていたが、その頃以来のリアリティだ。スーパーでもこのような雑穀や豆、そしてそれらの粉のコーナーが素晴らしく充実していて、その容器は祖父の時代に使っていた樽や升とイメージが重なった。
また、食べものにはいくつかの名前を持つものもあって、例えばギゼリのことをルオの人々はニョヨと呼ぶ。このあたり、同じ食べものに対して日本でも地方ごとに異なった呼び名がつくのと、かなり近い感覚だと思った。

 

野菜:例えばトマトなどは日本とやや形が異なるが、種類自体はほぼ一緒。しかし、その味は全く違う!香りが良くて、苦味も甘みもきちんとある。もちろんバナナ、マンゴ、パッションフルーツといった果物は最高だった。

卵:滞在したお宅には、近くに住んでいるデンマーク出身の高齢の女性がいらして、自分の家で飼っている鶏の卵を売ってくれる。黄味がちょっと色薄いその卵が、ゆで卵にしただけで、体験したことのない美味しさだった。

魚:街で食べた炊いた魚の種類をあとから聞いたら、テラピアではないかとのこと。暗かったので分からなかったのだ。味つけも含めて日本の煮魚と全く一緒で非常に美味しかった。また英国風フィッシュアンドチップスもあり、ナイルパーチを揚げたのとポテトフライが出てきて、美味しかった。ナイルパーチは巨大だからスーパーではすでに切り身で売っている。ヴィクトリア湖が近いからか、この二種をはじめとする魚料理はある程度一般的だという印象を受けた。

 

肉:油や肉を食べる機会は、東京よりもずっと少なかった気がする。CBDにあるソマリア人の経営するレストランとThe GOAT Social Clubで山羊の肉を食べ、ナイロビ市内で豚の焼肉店に一度行ったくらいか。あと、中東風に、様々なバリエーションのつくねを焼いて売っているお店も何度か見かけた。イスラム文化やインド文化も、日本でイメージするより近くにあるのだなと感じられた。

 

街で食事のできるところとしては、まずJAVAがある。日本で言うとロイホとスタバを合わせたようなものか。ショッピングモールごとにある。町の商店に比べたら値段は若干高めで日本のカフェと同じくらいだが、コーヒーも食事もとても美味しい。KFCも一回だけ食べた。ケーエフシーと呼んでいる。あたりまえか。

コーヒーについてもう一つ。現地では飲んだコーヒーのすべてが美味しく、これは素晴らしいと思って豆を買ってきたのだが、東京に戻ってその豆でコーヒーを入れても、どうしてもあの時の味にならない。なぜだろう?軟水・硬水といわれる水の種類が関係しているのだろうか?

 

 

(3)キャンセルされたイベント出演

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ケニア国立博物館
ウガリ
スーパーの豆コーナー