Column

2024.01.05 Fri

COVERS 2003(10)カヴァー曲紹介 A1 Moonglow

COVERS 2003 A1 Moonglow (Will Hudson-Eddie DeLange-Irving Mills)

オリジナルの7インチでもCOVERS 2003でも冒頭のトラックとなったこの曲が、一番、カヴァー元と自分のヴァージョンの距離があるかもしれない。僕がこの曲を始めて聴いたのは1970年代にいたるところに存在した「魅惑のスクリーンミュージック」的なLPの一枚で、「ピクニック」という映画のサウンドトラックとしてだった(映画は観たことがない)。熱を出して学校を休んだ昼などによく聴いていたのだけど、ゴージャスな(と当時は思った)映画音楽が並ぶ中でこの曲になると急に音にスキマができて、そのツーンとした雰囲気が好きだった。後になって、この曲は映画よりさらに以前、スイングジャズの時代に作られたということを知った。

この曲をスタンダードにしたのは何といってもベニー・グッドマンの演奏によるだろう。僕は特に、彼がテディ・ウィルソンとジーン・クルーパのトリオにライオネル・ハンプトンを加えて録音したスモール・グループの音源が好きだ。このグループはメインであるビッグバンドの幕間用編成にもかかわらず「進んだ」バンドであった、というのがジャズ界での評価らしい。僕の感覚で聴くと、このバンドの人間関係はすごく今のロックバンドに近かったのではないかと想像してしまう。パッと聴きは調和していて優美なのに、いつもどこか緊張をはらんでいる。四人という数も絶妙。そして僕がとにかく好きなライオネル・ハンプトンのヴィブラフォンが素晴らしい。

ベニー・グッドマンのヴァージョンと僕のヴァージョンの間には、それらとは全然似ていない、でもこれも素晴らしいヴァージョンが挟まっている。1960年代に盛り上がったグルーヴィなオルガンジャズのプレイヤー、ジミー・マグリフの演奏だ。踊るための音楽で、ジュークボックスでかけられることを前提としたレコードを数多く作ったGroove Merchantというレーベルのアーティストの中でも、オルガンという楽器を一番上手に活かした人。もちろんリズムはファンクなのだけど、コード進行のアレンジが他にはない四度シャープから半音ずつ降りてゆく(階名で読むとファ#→ファ→ミ→レ……)、それだけを取り出すと静謐とも言える進行で、これと強いグルーヴを組み合わせるというアイデアは、僕もしっかり影響を受けている。数ある音楽スタイルの中で「何を」やるかということは僕にとってはあまり大事でなくて、スタイルを構成する音楽要素にまでさかのぼった時にそれを「どう」表すか、にアレンジの面白さはあると思っている。大抵こんがらがってしまうけど。

ドラムボックスのフレーズは込み入ったオルガンのアレンジとは逆に、はっきりとRhythm & Sound的なダブ・テクノの影響が分かる。やっぱり時代感がここに現れている。冒頭からずっと聴こえる低い音は、ローランドのSystem 100というシンセ。もう40数年使っている。

2023.12.31 Sun

COVERS 2003(9)カヴァー曲紹介 B3 Who Done It

COVERS 2003 B3 (デジタルでは6曲目) Who Done It (Jackie Mittoo, C. S. Dodd)

この曲は2003年に7インチでリリースされた時にはMidnight Confessionというタイトルがついていた。今回それを修正して、Who Done Itとした。そのいきさつはこんなことだ。

Midnight ConfessionはU Brownが歌ったダンスホールチューンで、Trojan Dancehall Box SetというコンピレーションCDに入っていた。そのリズムトラックは実はジャッキー・ミットーのWho Done Itというインスト曲で、彼のファーストアルバムIn Londonにも入っているから聴いたことはあったのだけど、トラックの常としてテンポもサウンドも違うものになっていたのでつい気がつかず、歌(というかDJ=トースティング)のタイトルであるMidnight Confessionをそのまま僕のヴァージョンにも使った。後からあれはミットーのインスト曲だったと気づいて、機会があったら直さなければとずっと思っていた。誰がどのリディム(リズムトラック)を使ってそのオリジナルは何か、詳しい方がたくさんいるのだけど、僕はどうもこの問題になると何だか認識の裂け目にはまったようになって頭がぼんやりしてしまう。申し訳ないです……

ところでミットーのWho Done Itにもオリジナルというか「リユース元」があって、それはUSのサックス奏者でプロデューサーのMonk Higginsが作ったWho-Dun-It?というインスト曲だ。元曲が1966年にリリースされ、ミットーとスタジオワンのミュージシャンが自分たちのヴァージョンを発表するのが67年。当然ながらネットもなく輸入レコードだけが唯一のアメリカ音楽の情報源だった時代に、このリアクションの速さと的確さは何だろう。元曲もソウルジャズというかブルージーで踊れるいい曲なのだけど、ミットー達のヴァージョンは、余分な音のなさ、各パート間のタイミングの妙、そしてサックスを置き換えたオルガンのカッコよさにおいて、作曲者の名義を主張できるだけのオリジナリティを持っている。ひとことで言うとミットー達は、ループを演奏することの意識において、当時のUSのミュージシャンよりもはるかに現代に近いところにいると思う。

曲名問題を調べているうち、ジャッキー・ミットーについての論文があることをネットで見つけた。カレン・サイラスという方がカナダ・トロントのヨーク大学で書いたものとのこと

Jackie Mittoo At Home and Abroad: The Cultural and Musical Negotiations of a Jamaican Canadian
https://yorkspace.library.yorku.ca/xmlui/handle/10315/30656

僕の英語力はゆ〜っくり辞書を引きながら読めば大体の文意が想像できる程度なので、よっぽど時間がなければ読めないだろうと思っていたところ、2021年の夏にCOVIDになってしばらく寝こむ日々が続いたので、その機会に全部ではないけれど読んでみた。音楽論の前提となるミットーのバイオグラフィーがまず面白くて、今まで知らないことがたくさんあって、昨年今年のトークでは随分使わせてもらった。

この論文では、外からの文化が元の文化と出会う時、お互いに変化を与え・与えられながら担い手にとって自分達のものとなってゆく過程を丁寧に分析していて、楽曲の「リユース」についても、その過程で用いられる文化の担い手側の「戦略」のひとつとして論じられている。Who-Dun-It?→Who Done Itはその具体例として取り上げられていた。ミットー自身の生まれ育ちとその時代のジャマイカ(後には移住したカナダ・トロント)の社会や文化がどんな風に関わって彼の音楽となり、それがまた音楽シーンに影響を与えてゆくことになったか、バイオグラフィー上のエピソードの面白さとともに、いろんなことに考えをめぐらすことのできる論文だった。

僕のヴァージョン独自のアレンジであるドラムボックスのフレーズについて、どうしてこうしたかったんだったっけとデータを探していたら、ニューヨークのハウス・アーティストであるMasters at Workのサンプリングなどを試しているのを見つけた。僕にとってはニューヨリカン・ソウルとしての方がなじみのある人たち。その頃僕は結構いろいろなものをサンプリングしていて、後にいうトラックメーキングの練習などをしていたようだが、今日、デモを発見するまですっかり忘れていた。ある時これは自分には無理だと気がついて、その後はドラムボックスの音だけで演奏する安心感の方に進んだのだけど、二十年前の僕は、今よりまっしぐらに「クラブミュージック」寄りだったのだなあ。その後の僕の進み方、どうなんだろ。

Who Done Itも入っているミットーのコンピレーション、Tribute To Jackie Mittooの裏表紙。いいですね。

2023.12.28 Thu

COVERS 2003(8)カヴァー曲紹介 B2 Polka Dots and Moonbeams

B2 (デジタルでは5曲目) Polka Dots and Moonbeams (Jimmy Van Heusen-Johnny Burke)

1920~40年代のジャズが好きになったきっかけは、何だったかな。パンクの時代にロックンロールのはじまりを探すみたいな話題があって、ルイ・ジョーダンらのジャンプジャズや映画「ストーミー・ウェザー」のニコラス・ブラザーズのダンスがプリミティブを求める気分にぴったりだった時もあったけど、さらに思い出すと子供の頃にTVか何かで「グレン・ミラー物語」をそれと知らず観ていた気もするし、それを言うなら3才にも満たない頃に観ていた「トムとジェリー」は今思うと’40年代ビッグバンドのアレンジにあふれていて、そんな子供にしてもスピード感のあるリズムとちょっと怖い時もある和音が強く印象に残ったし、実際後から調べたら劇中でトムが”Is You Is or Is You Ain’t My Baby”(ルイ・ジョーダン。ただし演奏は別)を歌うシーンもあったり、とにかく意外とマニアックにならずに、モダンジャズ以前のジャズに触れる機会はその年代の子供にはあったのだ。

COVERS 2003の頃は僕のそんな好みがさらに拡がって、ジャンプジャズなどからさらに、室内楽的なビッグバンドへと興味が向いていた時期だった。そして見つけたのがクロード・ソーンヒル楽団で、ヴォーカルグループをフィーチャーした”There’s A Small Hotel”も好きだったけど、イントロから和声のアレンジがすごかったのでこれをオルガン一台でできないかと思い、Polka Dots and Moonbeamsをカヴァーすることにした。

和声に加えてやりたかったこととして、リズムはとてもオーソドックスな、電子オルガンのリズムボックスに入っているようなリズムを使った。今もエマソロで多用するこのようなドラムボックスのリズムの妙な「安心感」って、何なんだろう。もはや自分に近すぎでその意味を思い出すことすらできない。ただしこの曲だけで使っている要素もあって、シンセで作ってTR-808に加えているリズムの音で目指したかった雰囲気は、ずばり、YMOの「シムーン」だ。ある年代の人には近すぎて意識できないのだけど、やはりエマソロにはYMOの影響があるのだと思う。

自分のオルガンではすっかり音数が減ってしょぼくなってしまったイントロを始めとする原曲のアレンジは、当時同バンドのアレンジャーをしていたギル・エヴァンスによるもの。後にマイルス・デイヴィスとのコラボレーションで有名になるあの人だ。最近きっかけがあってまた彼のアルバム「The Individualism of …」を聴いているのだけど、和声とリズムの両面においてとことん「にじみ」を追求したんだなあとつくづく思う。彼の表現方法は譜面を書くことだからアドリブ中心のジャズにおいてはパフォーマーとは違った立場で受け取られることもあるようだけど、単音の楽器で即興的にメロディを作るということとは違った「瞬間」の表わし方がジャズ(やそれ以外の音楽)にはあるのだということを、彼の音楽から気づくことができると思う。

今年行ったCOVERS 2003発売にまつわるエマソロライヴでは、気に入ってくださる方の多い曲でもあった。

“Polka Dots and Moonbeams”が入っているアルバムではないのだけど、アートワークが良かったので。

2023.12.28 Thu

COVERS 2003(7)カヴァー曲紹介 B1 You’ll Never Find

B1 (デジタルでは4曲目) You’ll Never Find (Kenneth Gamble, Leon A. Huff)

JAGATARAのベーシストで尊敬する友達でもあったNABEちゃんが「俺はねえ、初めて買ったLPは必ずB面からかけるんだよ〜」と言っていたのにならって、ヴァイナルをまとめる作業はいつもB面から始めることにしている。なのでカヴァーの元曲を紹介するのもこのトラックから。

COVERS 2003には、ジャッキー・ミットーのような演奏をストレートにやりたいと思って選んだ曲と、表面上はレゲエでなくても姿勢は彼らのやり方にのっとってやろうとした曲との2タイプが、ちょうど半分ずつ収録されている。この曲はあきらかに前者で、ジャッキー・ミットーのアルバムThe Keyboard Kingで僕がはじめて聴いたこの曲のアレンジをお手本にしている。

ミットーのトラックそのものがカヴァーで、オリジナルはギャンブル・ハフのソングライティングチームが作曲してルー・ロウルズが歌ったソウル・チューン、1976年のYou’ll Never Find Another Love like Mineだ。ミットーのヴァージョンは、レゲエシンガーのJohn Holtによるカヴァーのためにバニー・リーのプロダクションで彼達が演奏した音源から、レゲエではしごく普通のことだけど、リズムトラックだけを再使用して自分のオルガンを重ねている(ヴォーカルもダブ要素として登場している)。つまり僕のトラックは、USで制作されたソウル→のレゲエシンガーのカヴァー→のオルガンヴァージョン→をカヴァーした、四代目?のヴァージョンとなる。

この曲をとりあげようと思った理由は、その「レゲエらしくないのにレゲエ以外の何物でもない」グルーヴだ。スライ・ダンバーのシンコペーションばかりのドラムフレーズと、ロビー・シェイクスピアの、コードのメジャー7th音(コードのルートからドレミファソラシと数えたときのシ)から始まるベースラインという、普通なら避けるべきことだらけの演奏なのに、全体としては見事に成り立っている不思議なリズムアレンジ。しかもそのリズム・コード共にモヤがかかったような雰囲気から生まれるグルーヴは強くしなやかで、原曲のフィリー・ソウルよりもバネがある。ジャッキー・ミットーのオルガンも、それだけを取り出して聴けばまったくイージーリスニングというか、この時代によくあるポップスのオルガン演奏なのに、リズム隊と一緒になるとたちまちグルーヴを発揮する。このオルガンと他のオルガンの違いは何なのか、2000年代ならば「音色」と答える人もあっただろうが僕はそう思わない。伸ばす音と短く切る音の配置とタイミング、そして原曲の歌のようなそうでないような微妙なメロディ、つまりはジャッキー・ミットー自身の「音符」そのものが、ドラムアンドベースと一緒になった時に他にはないグルーヴを生み出しているのだ。おそらく全員が同時代のUSのソウルやファンクの演奏をタイムラグなしで身につけているはず。そこから出てくるファンクのエッセンスが、ワンドロップなどひとつもないのにレゲエでしかないグルーヴを感じさせるということが、ヒップホップも4つ打ちもなかった時代の十六分音符の演奏の凄みと幅広さを表わしている。

この雰囲気を何とか自分のものにしたい、という極めてストレートな気持ちで取り組んだのだけど、やり方がストレートすぎて、足鍵盤とメロディの音域が重なっても気にしてなかったり、普通ならもっと分かりやすくすべき工夫をまったくしなかったので、聴こえてくる演奏はまったくストレートではなくなってしまった。リズムマシンTR-808のフレーズだけは少し整理しているのだけど、その方向性には僕の1980年代ニューウエーブから1990年代にかけての感覚がうかがわれる。この傾向はCOVERS 2003の全体にあって、収録曲のアレンジから「時代感」を感じるとしたらまず打ち込みドラムのパターン(だけ)ではないかと思う。ドラムのフレーズというものはそういう風に手がかりとされがちなので、ちょっと可哀想だ。それなら、大好きなピューンというシンドラも入れておけばよかった。

ヴァイナルのマスタリングでは、とにかくキックに注目して全体の感じを決めていった。強く、しかし、ローエンドが出すぎて重くならないように。重さは足鍵盤に担当させて、バネを持って音楽を進めてくれるように。イントロの二発のキックとシンバルだけで(TR-808ではこういうイントロが作れる)、続くB面のすべての音をうまく導いてくれるようにと願って作った。

Jackie Mittoo The Keyboard King
https://www.discogs.com/release/2388181-Jackie-Mitto-The-Keyboard-King

2023.11.09 Thu

COVERS 2003(6)マスタリングについて

先日、敦賀でのエマソロイベントで、COVERS 2003 の発売以来、最もハラハラする瞬間があった。
地元のDJチームの方が、二十年前から持っていたオリジナルの7インチと購入されたばかりの COVERS 2003 とを二台のターンテーブルに乗せて、その音質を聴き比べるという場面に出くわしたのだ。まさにこんな機会もあろうかと、この夏はカッティングエンジニアさんと何度もやりとりしてきたのだ、とひそかに思いながら、一方で、再発の方が音が悪かったらどうしようと不安でもあった。結果は、思ったとおりでもあり、意外でもあり……でもマスタリングされた作品の音というのはそれで良くて、むしろ「思った通り」だけではつまらないと考えている。そのことはこの欄の最後に書きたい。とにかく yoiyoi クルーの皆様、ありがとうございました!

COVERS 2003 のマスタリングを行うにあたって、最近ではすっかりやらなくなった作業から始めることになった。マスターテープを探すことだ。ハードディスクではなく物理的に家の中でものを探すという行動自体が久しぶりだった。そして、当時の DAT テープを発見した(写真)。見たことのない人も多いと思う。カセットテープの7割くらいの大きさで、テープだけどデジタルデータを記録している。

しかし結局、このテープを今回の元音源とすることはできなかった。家にもカッティングをお願いした工場にも、DAT を安全に再生できるプレイヤーがなかったのだ。再生できないというよりも、テープが機械の内部で絡まって切れてしまうような危険性を考えると、テープをかけること自体が一種の賭けになってしまうからだ。結局、このテープをハードディスクにコピーしておいた、2003年当時のデータを今回のマスター音源にすることにした。しかし問題はそれだけではなかった。当時のDTMソフトによってレコーディングされたデータのフォーマットが現在多く通用しているものとは違っていて、単に音を聴くためのだけに、コンピュータ関係のサイトをあちこち調べまわらなければならなかった。たった二十年前の20数分の作品を聴くまでに、予想外に長い時間がかかってしまった。

そうして入稿した音源のデータを、レコードと配信、それぞれのマスターにする作業が待っている。今回はフィジカルとデジタルのリリースを同時に行ったのだけど、それぞれのマスタリングに対する考え方は、あえて違ったものにしようと思っていた。

まずレコード。レコードのマスタリングというのはカッティングと同義で、レコードをプレスする元となる「原盤」に文字通り音の溝を切ってゆく工程のこと。2003年のオリジナル7インチは、Exchange という当時のDJ界隈で注目されていた海外のカッティング工場でマスタリングされた。実は僕は最近までそのことを知らなくて、人に教えられて改めて7インチの盤面を見てみると、確かに盤の隅っこに「exchange」という、落書きのような文字が掘られていた(教えてくれた高松のふじたさん、ありがとうございました。僕はなんて無頓着なんだ)。今回どこにカッティング・プレスをお願いするかは、決めていた。mmm とのアルバム CHASING GIANTS を作った際、使用するプリマスタリング音源をどれにするかという段階から相談に乗ってくださったエンジニアさんとぜひ今回も一緒にやりたかったので、川崎の古くからある会社にカッティング・プレスをお願いした。

レコードのカッティングというのは、依頼する度に痛感するけれど、本当に幅広い音が作れるものだ。そして、盤に溝を切るという物理的な作業から生まれる音の変化は、デジタルのように一つのパラメータで一つの音が変わるようなものでなく、一つの要素が音質・音量の全体に常に影響を与えながら曲の印象を形作ってゆく、よりダイナミックで複雑な過程だ。
ここで大事なのがエンジニアさんとのやりとりの仕方だ。ある一点だけを変えてもらおうと思って伝えても、それによって全体が変わるかも知れないということを理解しておかないと、「変えないほうが良かった」ということになりかねない。逆に、変えてほしい点に根拠があるのなら、デジタルのように細かく注文するよりも、ざっくりした表現で伝えた方が、先方により良く意図が伝わるかもしれない。
そして一番大事なのは、カッティングエンジニアさんが作った音を理解し、尊重することだと思う。
海外にカッティングを発注した場合、最初に戻ってくるテストプレスは、こちらの意図と違う部分もあるし部分的に歪んでる場合もあるのだけど、なんだか、エンジニアさんがノリノリでカッティングしてくれたなという雰囲気がその音から伝わってくる時があって面白い。今回は日本語で丁寧にやりとりしたかったから川崎の会社にお願いしたけれど、やりとりの大半は作ってくれた音を変えることではなく、いかに良い部分を残しながら必要な部分だけを変えてもらうかに費やした。例えば A面1曲目の Moonglow は、先方が最初にテストカットしてもらったものを何も変えずに採用している。やはりヴァイナルのカッティングにもセッションのようにテイクがあって、テイク1が一番良いというのはここでも結構言えることなのだ。

こうしてできた盤についてはみなさんのご意見ご感想を、たくさんいただきたいところだ。今のところDJする方々からは、僕が若干不安に思っていた「変えなかったところ」に対して肯定的な感想をいただいている。一方で、聴き比べをした敦賀の方々からは「7インチは現場で楽しみたい時、COVERS 2003 は家で聴きたい時」という感想もいただいた。僕自身はというと、敦賀で聴いた時のレコードプレイヤーはとてもシンプルなものであったにも関わらず、7インチとCOVERS 2003との違いが結構思った通りだったので驚いた。その上で、作品というものを違う環境で聴いた時には必ず新しい発見がある。その「思い通り」と「意外」とのバランスこそが、何度やっても予測のつかない、難しく面白い点なのだ。

デジタルに関してはヴァイナルとは全く違う方向性で、2003 年のマスターの音を、極力忠実にマスター化することを目ざした。2003年というのは、DTMの流れの中では「微妙」な年代だ。カセットが宅録の中心機材だった1980年代や、現在アナログ機以上に使われていない「初期」デジタル機材による1990年代(当時は気づかれなかったが、今思うと音の良い機材がたくさんあった)の録音に比べれば十分現在に近づいているが、現在のようにUSB一本で繋げば思った通りのことができるほどパソコン環境は進んでなくて、「Mac博士くん」がネットに書き込む怪しくて細かい情報を探し回ることが必要だった、そんな時期。
その「微妙」さを伝えるため、きちんとしたマスタリングをしていただくことをあえてせず、ほぼ当時のファイルからのコピーをデジタルのマスターにした(それでも自分なりに、音楽的に必要だと思う調整はした)。それで、サブスクの中で他の楽曲との流れで聴くと若干音量が小さく感じられるかもしれない。「CD時代」のような「音圧競争」が意味をなくした今だからこそできる挑戦かもしれないと思っている。

最近若いミュージシャンの方々から、マスタリングについて尋ねられることがよくある。そもそもレコーディングやミックスと同列でマスタリングという作業をとらえること自体どうかと思うし、ヴァイナル盤の場合はマスタリング(カッティング)とプリマスタリング(デジタル同様、入稿する前の音を調整すること)とは違うというのもあるのだけど、一番思うことは、彼らは「プレビュー」できることが当たり前の環境でずっと音楽をやってきたのだなあということだ。

今ならば録音にしてもミックス・マスタリングにしても、録音した音は演奏した瞬間に、(ほぼ)録音した時のままの音で再生できる。テープレコーダーはそうではなくて、録音された音は録音中に聴いているものとは違うのが当たり前で、それがどんな感じであるか、テープを巻き戻して「再生」ボタンを押すまで分からない。レコードのカッティングも、我々にとっては一度カッティングをしてもらい、テストカット盤をプレイヤーにかけるまでどんな音になっているか分からない。その分からない部分を経験によって予測し、必要な調整をしてくださるのが本来の「エンジニア」さんのエンジニアたる部分だし、我々ミュージシャンの方も、演奏した音と再生される音の差をどう「予測」するか、というか、予測が合っても外れてもそれを作品として伝えてゆく腹の座り方が必要だった。演奏された音と再生される音の差を縮めるためにたくさんの努力が払われ、それが今のレコーディング環境に結実しているのだけど、僕はそもそも、純粋な「演奏したそのままの音」というものがあるのか、あってもそれにどんな価値があるのかよく分からないし、むしろ演奏したままの音と再生される音の「差」の部分から見えてくる、演奏者やエンジニアやレーベルスタッフや音楽ファンの時々の好み・気持ちにこそ音楽の面白さがあると思っている。それがなければモータウンもスタジオ・ワンも存在しなかったはずだから。その差を「予測」しながら、演奏→録音→再生→次の演奏…のサイクルをしりとりのように進めてゆくのが僕の好きな音楽の作り方で、最初から最後まで「自分の思う通り」に進めることが一番という考え方とは違うし、「思い通り」に作ることをサポートしてくれるツールにはあまり興味がないかもしれない。

とにかく、ヴァイナルのマスタリングにおいては、DTMプラグインのように自分が変えたいと思ったポイントだけが変わることはありえなくて、しかもそれは基本的には「再生」してみなければ分からないということは押さえておいていいと思う。物理的に針で盤を刻むという作業から出てくる音は、「レコードの音ってアナログでいい感じですねー」などと言った「アナログ」の印象よりもはるかに幅広く、乱暴で、面白い。僕なりの表現で言わせていただくと、流れる時間の感じがまるで違う。ポータブルなプレイヤー、よく調整されたオーディオ、よく調整されてないオーディオ、クラブの大音響、周りの音に消されそうな少音量、環境によって聴こえる音は違っても、良いマスタリングの施されたレコードは、どんな環境でも音楽の伝わるポイントがなくならない。どんな環境でも同じようなスペックで音が出るストリーミングプラットフォームのためのマスタリングはまたそれとは違っていて、そこにはまた別の挑戦もある。それを良いものにしてゆくのに、演奏の場合にもまして、聴く方々の感想が、しかもそれが思いもよらないものであればあるほど、次の作品に活きてくる。みなさまのご意見・ご感想を、常にお待ちしております。


発見された 2003 年当時のマスターテープ

2023.10.11 Wed

エマーソン北村 COVERS 2003 がリリースされました

リリースインフォメーション(ウエブサイト)
https://www.emersonkitamura.com/solo/
release information (website)
https://www.emersonkitamura.com/solo/2023/08/792/

ヴァイナルお取扱店リスト
https://www.emersonkitamura.com/solo/2023/10/807/

デジタル (linkfire)
https://ultravybe.lnk.to/covers2003

bandcamp
https://emersonkitamura.bandcamp.com/album/covers-2003

オフィシャルトレイラー
https://youtu.be/FsUpXOq7pBY

このウェブサイト「Columns」に書いている、COVERS 2003についてのセルフコメント
https://www.emersonkitamura.com/column/2023/09/1019/

まず最初に、オリジナル音源である2003年にリリースされた7インチを買ってくださった皆さんに感謝します。また二十年前、この7インチをきっかけとして僕を初めてライブに呼んでくれた方が何人かいて、その多くは今でも、ライブに呼んでくれてはいろんな話を聞かせてくれます。このお付き合いは何にも代えがたいもので、一番に感謝しています。7インチを持っている方の多くは、自分のコレクションの希少価値が下がるにもかかわらず、COVERS 2003のリリースに対して好意的な反応をしてくれました。 これもありがたいことです。そしてオリジナル音源の再リリースを認めてくれた Small Circle of Friends と当時のスタッフ、今回のリリースに関わったデザイナー、カッティングエンジニア、ディストリビューションスタッフの皆様に感謝します。

来週は二日間に渡ってリリースイベントを行います。ぜひいらしてください!

エマーソン北村 COVERS 2003
リリースイベント 2Days
2023年10月18~19日
Day 1: ライブ at 下北沢 LIVEHAUS
https://forms.gle/zeSBoYhC2BdjJquv5
Day 2: アーティストトーク at 神泉 JULY TREE
https://forms.gle/F6RtMQvC8TFgECxeA

2023.10.10 Tue

COVERS 2003(5)足鍵盤のオルガンについて

キーボードプレイヤーが一度に使う楽器の物量は以前に比べてすいぶん減った。電車の中などで、ギタリストと同じような姿でキーボードを背負っている高校生などを見かけると、なるほどと思う一方、自分がかつて「キーボード・マガジン」などで楽器の軽量化を主張したにもかかわらず、なんだか彼らの負担で効率化だけが進んでいるような感じもして、「本当にこれで良かったのかな」ともちょっと思ってしまう。

とはいえ、ライブの場などで何台かのキーボードを使い分けるケースは今でも多い。曲中で音色の違うパートを弾き分けるには、その分の数の鍵盤を揃えることがいちばん分かりやすいからだ。その場合、僕は「使われる何台かの楽器が、全体としてひとつの楽器として聴こえる」ように、注意してバランスをコントロールしている。これはキーボード奏者の中では特殊な方かもしれなくて、多くの人は、鍵盤のひとつひとつを良いバランスで弾くことには気をつけるけど、各々の楽器のバンド全体におけるバランスはそれを整えるべき人におまかせ、というやり方をとっているようだ(いや、よく分からない。こんな重要ことが、ミュージシャンという者には意外とわからない)。

僕が複数の楽器を全体でひとつの楽器ととらえる理由はいくつかあって、すべてのキーボードが別々のバランスを取ることですべての場面ではっきり聴こえるようになるよりも、一人の演奏する楽器群としてダイナミクスが一つにまとまることで、他の奏者の演奏と一緒になった時に、聴こえる時は聴こえ、埋もれる時は埋もれるようになった方が、バンド(のその日のショウ)全体のダイナミクスがより「リアル」になるのではと考えているのがその第一なのだけど、もっと背景的なことを言えば、僕がキーボード奏者として、ピアノではなくオルガン(電子オルガン)をルーツに持っていることがあると思う。

オルガンは、鍵盤が三段揃った状態が正式で、それぞれアッパー/ロワー/ペダルと呼ばれる。ペダルはいわゆる足鍵盤。なぜピアノは一段なのにオルガンは三段も必要なのかというと、オルガンは鍵盤を押さえただけでは音量も音色も変化がないので、例えばピアノではコードとメロディを同時に弾くときはタッチの変化でそれぞれに合った音量音色を表現するけど、オルガンではあらかじめメロディ用とコード用に作った音色を別々の鍵盤に振り分けておくことでしかそのバランスを表現できないから。それぞれの音色はオルガンの内部でひとつにまとめられてスピーカーなどに送られる。鍵盤がいくつあってもそれらは一つの楽器としてダイナミクスをコントロールするために使われる。これがオルガンの考え方で、その考え方を数台のキーボードに対しても拡げたのが、僕の発想のもとになっている。このことはあまり指摘されたことはないのだけど、唯一、UKのマンチェスターで mmm with エマーソンのライブを行った時、お客さんから「あなたのキーボードプレイはシンセを使っているけど、オルガンが基本ですよね」と正しく指摘された。さすがマンチェスター、音楽わかってる。

そんなわけで、僕は足鍵盤も普通に弾く。よく「足で鍵盤なんてすごいですねー」と言っていただくのだけど、僕にとっては自転車に乗るような感覚で、すごいことをやっている感じはない。ただよく誤解されるのだけど、足鍵盤は「ベース」とは違う。たぶんこの誤解はいわゆるオルガンジャズ、ベーシストがおらずオルガン奏者が低音の4ビートを弾きながらアドリブもする音楽をレコードで聴くことから始まったと思うのだけど、実はあれば足でなく、左手で弾いている場合がほとんどだ。ポピュラー音楽のオルガンにおいて足鍵盤が多く使われるのはそのような場面ではなく、例えば米国の野球場やスケート場で演奏されるようなイメージの、フルバンドを雇う余裕のないBGMとか、あるいはなんていうか、ちょっと演芸の雰囲気を伴った演奏(ほら、こんなにたくさんの鍵盤を弾いとります。足も使ってます!)など、「純粋じゃない音楽」の雰囲気がある。そしてそういう音楽、僕は結構嫌いじゃない。

そんな欧米のオルガン軽音楽における足鍵盤が「ベース」の代わりであると思われるようになったもう一つの理由は、日本独自のものである、電子オルガン教室にあると思う。僕も通ってました。足鍵盤をベース、下鍵盤をコードバッキング、上鍵盤をメロディとそれぞれバンドアレンジのパートに対応させる発想は、はっきりと「エレクトーン教室」のものだ。「エマソロ」のスタイルはある意味、そこで習ったことを教室の外の音楽へありえないほど拡げた結果であり、素直も度をこせば変わったものになってしまうということの見本なのかもしれない。(脱線ついでに、子供の時の少し恥ずかしい思い出でしかなかったヤマハ音楽教室については、音楽史・産業史の観点から客観的な研究がされているということを最近知って、「外からの」音楽の受容の過程という意味で自分の中に改めて置き場所ができる感じがした。いずれまた詳しく)

足鍵盤を弾いていて唯一難しいのは、レゲエのベースラインのような早いフレーズが弾けないことだ(当たり前だ)。そして自分にとってベースの動きというのは、アレンジの中で最も大事なものだ。COVERS 2003のレゲエ曲では、足鍵盤は「省略ヴァージョン」のベースラインを弾いていて、その残念さが以降のエマソロではベースラインを左手で弾くスタイルを増やした理由となった。しかしそうするとレコーディングではダビングを多用せざるを得ず、COVERS 2003のようなライブ録音(ライブショウではなく、いわゆる一発録りのこと)のシンプルさは減ってくる。ここがエマソロの悩みどころで、今でも解決法を誰かに教えてほしいと思っている。

2023.10.04 Wed

COVERS 2003 bandcamp とウエブショップでの予約を始めました

bandcamp
https://emersonkitamura.bandcamp.com/album/covers-2003
デジタル・ヴァイナルアルバムの Pre-order が可能です。

エマーソン北村ウエブショップ(BASE)
https://emkitamura.thebase.in/

現在、業務が立て込んでおります。申し訳ありませんが、ヴァイナルの発送はリリース日から二週間程度かかる可能性もございます。

全国のレコード店さんとそのオンラインショップでも予約を受け付けています。当方で把握しているお取り扱い店のリストはこちらにあります。合わせてよろしくお願いします。

2023.09.26 Tue

COVERS 2003(4)カヴァーを録音するということ

COVERS 2003 は全曲がカヴァーです。その理由は、当時それほどオリジナル曲を作っていなかったというのもありますが、やはり第一に、Jackie Mittoo を始めとするレゲエ・ロックステディのインスト(器楽演奏)の多くがその時代に流行った曲のカヴァーで、その「味」が僕にとっては何とも言えない良いものだからです。この好みだけは何年経っても変わりませんね。

ただし、僕の録音はストレートにロックステディインストをやっているわけではありません。6曲中の2曲は直接 Jackie Mittoo のカヴァーですが、それらを含めてどの曲もさまざまな要素、僕がその曲を録音するにあたってあちこち「想像の寄り道」をしたことが反映されています。ロックステディのミュージシャン達の作った音楽スタイルを尊敬してその鍵となる部分を押さえることは大事ですが、僕は、要素としてスタイルを踏襲すること以上に、彼らの音楽作りの姿勢そのものを尊敬して踏まえることの方が大事だと思ってます。彼らのカヴァーはコード付けも謎の部分があり、メロディも時に「うろ覚え」なんですが、それでなければ出せないグルーヴがあり、表したい気持ちがあります。それを単にキッチュなスタイルとしてマニアックに楽しむのか、それとも今ここで暮らしている我々の気持ちに訴える音楽作りに活かすのか、ミュージシャンとしての姿勢が大いに問われるポイントです。当然僕は後者をめざしていて、カヴァー曲のアレンジが、他人の知らない音楽知識の引き出しを誇示するようなものになるのは最悪だと思っています。

しかしながら、古今東西の音楽情報とその価値基準(リファレンス)にまみれて暮らしている今の我々ミュージシャンにとって、いくら Jackie Mittoo が “Theme from a Summer Place” を学校のピアノで弾いた瞬間のような気持ちになりたいと思っても(僕は本当に、真剣にその気持ちになりたいです)、今スタジオで同じアレンジで “Theme from a Summer Place” をやればそうなれるという訳もなく、ではどうしたらいいのか……というところから、「想像の寄り道」が始まるのです。

そんな「寄り道」ぐあいは時に、オリジナル曲よりもカヴァー曲の方がより分かりやすく現れるかもしれません。何と言ってもオリジナル曲には「自分が作った」という意識が重くのしかかっているので、それによって「寄り道」は見えづらくなっている場合があるからです。その意味ではカヴァー曲というものには、オリジナル曲よりもより「純粋に」音楽が表現されているのかも知れません。しかしそのことは、オリジナル曲を作ることの価値を下げるものでは全くないと思います。そもそも僕は、音楽に「絶対的な純粋さ」みたいなものをあまり求めません。今日これを言っておかないと自分がおかしくなりそうだからこんな曲ができちゃったというようなものは、いくら自意識にまみれていようと、「純粋」でなかろうと、かけがえのない音楽だと思っています。ようはそれをどう形にするか、人に伝えるかということが、ミュージシャンとして仕事をする上で最も大事なポイントになってくるのです。

2023.09.20 Wed

COVERS 2003(3)再リリースの意味

(前回からの続き)ひとつには、自分のバンド歴は常に「タイミングを外して」きたことの連続だったという思いがあります。’80年代の初頭から音楽ファンとしてレゲエやダブ、ニューウエーブに代表されるいろんなものがミックスされた音楽に浸って、その結果 JAGATARA や MUTE BEAT に参加したのですが、その時すでにそれらのバンドは数年の活動歴を持っていて、’90年代に入ってまもなくその活動を終えてしまいます。その二〜三年後、僕がライブハウスのスタッフとして全然自分の時間を持てない生活をしていた頃、僕が’80年代に浸っていた音楽は突如(と僕には思えた)、ヒップホップやダンスホールレゲエやスピリチュアルな「4つ打ち」、要するにクラブミュージックとして再び僕の前に現れ、さらにはそれをバンド演奏に取り入れる、年齢的には僕と同じくらいの仲間達が続々と生まれてきました。しかしその時……諸手をあげてそれらの動きに飛び込むには、僕はどうしても「それは既に一度やったこと」という意識から離れられなかったのです。結果的に、’90年代の「新しい」音楽にくみしながら、その「新しさ」の価値を、心から信じていたわけではなかったのかもしれません

’90年代の中盤〜末の音楽シーンにおける「新しい」ということの価値の大きさ、そのキラキラ感は、どんなに人の知らないことをやっても必ずそのリファレンスを見つけることが可能になってしまうような、現在の音楽を作る人が取り囲まれている状況からは、ちょっと想像できないものがあると思います。その中で僕が持っていた小さな違和感は、少なくとも自分にとっては、その後のエマソロを始める原動力のひとつになっているような気がします。そして COVERS 2003 に収録されている音源は、ちょうどその転換点あたりに録音されたのです。当時そんな意識は、ほとんどありませんでしたが。

もうひとつだけ言っておきたいのは、めちゃめちゃ普通な感想ですが、この音源、シンプルで良いんですよね。この録音が「ライブ」(いわゆる一発録り)で演奏されているということだけでなく、発想からアレンジから楽器から、それまでのバンド演奏では体験したことのない制約を感じながらやりたいことを落とし込んでいる、ある意味での切迫感が、そのシンプルさを支えていると思います。この音源の十年後に「遠近(おちこち)に」に始まるオリジナル曲中心のアルバムを作って、その時もまた別の切迫感があったんですが、今回 COVERS 2003 として収録されたトラックを聴くと、やはり普通にシンプルでいいなあと思うんです。そのへんを自分できれいに整理するのは、いつまで経っても難しいですね。