Column

2020.06.05 Fri

CHASING GIANTS セルフレビュー (3) 街のあいだ -欠けたもののこと-

この曲ではいろんなものが欠けている。演奏的には楽になっても余分な要素は曲に入れない、という方針はmmm with エマーソンだけでなく僕の関わるものの多くに共通しているが、それは僕が、そもそも音楽というものは、どこか「欠けた」人のためのものだと思っているからかもしれない。

第一の「欠けている」要素は、もちろん歌詞の内容だ。この曲を作った頃は渋谷の街区の取り壊しが多かった時期で、たまたま同じ頃に抜いた親知らずの感覚と、なくなったビルの感触が重なっていた。そんなことを思いながら骨子となるリフと歌詞に関するキーワードをmmmに送ると、メロディのアイデアが返ってきた。そうやってやりとりしながら徐々に、今ある曲の形を作っていった。

第二に、人間味に「欠ける」そのリフのこと。自分で言うのも何だが、多くの人がエマーソンの演奏の特徴として思い浮かべるのは、このリフのような「機械的なフレーズを、機械を使わずに弾く」ことではないだろうか。なぜ手弾きなのか?打ち込みを使わないならもっと「自然な」フレーズを弾けばいいのでは?こんな質問が出るのも当然だと思うが、ひとつには、僕がミュージシャン界に入った1980年代後半には「機械のように正確に」演奏できることが「売れる」ミュージシャンの必要条件だったということがある。僕は当時の「売れてる」音楽はくだらないと思いながらも、何とか「売れ」ようと必死にクリック練習(拍を刻むガイドに合わせて練習すること)をした。その経験が否応なく、自分の演奏には残っている。
今になって思えば、「ジャスト」がもてはやされた1980年代には、自由なタイミング編集が可能になった現在に比べて、正確ということがまだそれほど当たり前ではなかったのかもしれない。当時のMIDI機材の精度に比べれば、1970年代以前のアナログシーケンサーやテープループで作られた音楽の方が、タイミングの正確さでははるかに「本物」である(そして最近復活している)。それらの音楽がポップスの一スタイルに使われるようになる過程で、ラボにこもって数分の一秒のループに何日もかけるようなものから「売れる」ミュージシャンの必須科目へと、作り手の中での「時間」の凝縮のしかたも変化してきた。そんな「タイミング」に対する理想とあやふやさとを、僕の「手」は表していると思う時がある。

ところで僕が当時出会った音楽には、そういった流れとはまったく別の意味で「機械的」な要素を持つものがもう一つあった。レゲエ、サルサ、アフロビート。打楽器であろうがコード楽器や管楽器であろうが、ひとつひとつのフレーズはパターン化され、「機械的」な正確さで繰り返される。しかしそれらが組み合わさって全体を形づくった時、ものすごい揺れと感情が生まれる。しかもそれはポップだった。何より、人力で演奏されている。

ループミュージック、ルーツミュージック、そしてニューウエーブ、これらの音楽にずっと引っ張られながら、しかもどれにも属さない・属せないミュージシャンとして僕は活動してきた。「パターン」とか「ジャスト」といった問題に対して僕の価値観は常に、疑問を投げかけられ続けてきた。僕のタイミングマニアぶりはそんなことで成り立っているのだと思う。だからこの曲のリフのような要素は、「じゃあこの曲にはこれ使おうか」という風に自由に選ぶことのできるものではない。自分について回っているものなのだ。

三つ目に「欠けている」ものは、僕の音楽で大事な要素である「ベース」だ。普段は僕が左手で弾くことの多いベースというか低音パートは、mmmのギターが担当している。歌い手が自分で弾くこういうギターはすごくいい。mmmはベーシストでもあるが、あえてこの曲ではベースでないのがいい。いうまでもなくYoung Marble Giants的でもあるし、アフロビートのテナーギターのようでもある。
ただしライブでは、ベースのないことは音量感のなさにつながる。他の曲と並べると、テンポはあるのに音量がかせげない。だからリハでは何度もベースを加えようと試したのだが、その度に断念した。何かが違うのだ。「欠け」を埋めると別の「欠け」が見つかり、そのすべてを埋めるまで試行錯誤を続け、最終的に、つまらないものになる。これを僕は「ライブ音量症候群」と勝手に呼んでいる。録音や配信では曲ごとにトータルの音量が変えられるが、ライブではその日の最大音量はセットリストの中で一回あるだけだ。だから一つのショウの中でいかに「音量を下げられる」かがライブ演奏の醍醐味なのだが、ライブというものは何度もやっていると、その辺の感覚がまひしてくる。それに抗したくて、今でもレコーディングのままのバランスでこの曲を演奏している。

最近この曲には、mmmが激しいギターソロを弾くパートを加えてみた。これもまた音響的にはアンバランスなものだが、僕は結構、このデュオらしくて気に入っている。

この曲を作った頃にはたくさん欠けていた渋谷の街も、気がつくと随分いろんなものに埋められている。その多くは自分から遠く離れた、見ても冷たい気持ちにしかならないものだ。

逆にとても嬉しかったことは、ライブ物販で会った人に「街のあいだDJでめっちゃかけてます」と言われたことだ。CHASING GIANTSは多くの方にとてもいい聴き方をしていただいていることを、いろんな機会に実感しています。

2020.06.03 Wed

CHASING GIANTS セルフレビュー (2) Chasing Giants -ただ数えること-

このアルバムの前年2018年に、mmm with エマーソンはカセットテープをリリースしている。すべてオリジナルからなる4曲入りで、うち3曲はCHASING GIANTSにも収録されている。ライブ会場限定での販売だった(現在は通販もしています)。EU・UKツアーが決まって音源を作ることにした当初は、この4曲を中心に何曲か加えればそれでアルバムになるだろうと思っていた。しかしある時点から、これから作ろうとしているものは、カセットとは曲数だけでなく質的にもまったく違ったものになるだろうという気がしてきた。そう思い始めたのは、2019年の春にmmmからこの曲、Chasing Giantsのデモを聴かせてもらった時だった。

デモ時点でmmmの歌詞とメロディはほぼ完成していた。「今のところ、私の日常は、まあ静かなもの」という冒頭から始まって、「そしてそれから、繰り返す(一番にはなくて、二番に出てくる)」という言葉を合図にとめどもなく逸脱してゆく思考。僕は特に、「生命のないものが鮮やかな色に取り込まれてゆく」という部分の歌や、「一日中円を描いている」ような孤独感、そして軽く言えることではないが、エウリュディケを連れて冥界を歩く神話のワンシーンが、「死んだ妻の話」として後の「夏至」にも通じるモチーフを持っていることなどに、深い印象を受けた(歌詞は対訳でなく、北村のイメージ)。

ところがmmmは、この曲には納得できない部分があるからボツにしたいと言う。大あわてで理由を聞くと、自分の歌っている音が小節の拍の中でどこにあるのか分からないから、ということだった。この曲は6拍子なのだが、同時に2拍子とも3拍子とも4拍子とも「取る」ことができる。どのように拍を「取る」かは楽器を演奏するためには大事な要素だが、ジョン・レノンの曲に自然な変拍子が多いように、歌を歌う分にはそれほど気にしなくても済む。しかしそれを納得いかないと感じるmmmは、歌い手であると同時にミュージシャンとしての資質も大きいのだろう。これもデモ段階ですでに完成していたギターのリフというかベースラインと自分の歌とを、音楽の共通言語の中に落とし込めないことは、その曲をボツにしかねないほど大きな問題だったのだ。

それで、僕の役割は決まった。「ただ数えること」。
すべてのフレーズが「いち、に、さん、し、ご、ろく」を明確に示しながら歌と共に進んでゆく、そんな演奏をすること。

「ただ数える」というのは単に技術的に正しく演奏するとか、歌を「立てる」ように演奏するということではない。歌い手の表現するメロディに対して、それが「どこにあるのか」を示す座標軸、遠近法の絵ならば消失点に向かって引かれる直線のようなものだと思っている。それはメロディと同じくらいエモーショナルで、「気合」を必要とする作業だ。
「どこ」にはいろんな意味がある。拍やコードといった理論上の意味はもちろん、アイデアが古今の音楽スタイルのどこに位置するかということでもあるし、もっと個人的な、自分の感情の中でどんな場所を占めているかという問題でもある。そのどれか一つでなく、すべてがうまくバランスを取れた時、曲は人に伝わるものになる。だから共演者にも、知識やアイデアだけでなく、それが自分の「どこ」にあるのかをはっきりとらえることのできる力が必要とされる。
何もない無音の空間に最初の音を置くことは、何度やってもおそろしい。「いち」の次に「に」をどこに置くか、「さん」までどのくらいの距離があるのか、一音ごとに問われる中で余計な「意図」などにとらわれず演奏を歌い手に示してゆくことが、「ただ数える」ということである。

そんなわけでこの曲は、どちらがギターだかキーボードだか分からないユニゾンから始まって、手作業のループが加わり、ダイナミックなパートから間奏へと拡がる展開を通じて、あえて言えばどこにも僕「独自」のアイデアはない。ひたすら歌詞と一緒になって、どこへ向かうのか分からない心の中を、mmmとは別の時間軸上で「ただ数えながら」展開させているだけなのだ。そして、曲自体もどこにたどり着くのか見えないかのように、歌は繰り返し、パートの間を行き来する。この「繰り返す」ということもCHASING GIANTSの大きな要素だと思うが、それはまた別の機会に書いてみたい。

もうひとり「ただ数えている」人がいる。ゲストドラマーである菅沼雄太(僕はEGO-WRAPPIN’のサポートを一緒にした時の癖で「すがちゃん」と呼んでしまうので、以下すがちゃん)だ。
mmm with エマーソンは主にサンプラーシーケンサーを使ってドラムの音を出しているが、特にそれを理想としているわけではない。しかしまた、一度ドラマーに演奏してもらったら、それが良い結果であるほど「あと戻りはできなくなる」ことも分かっていたから、アルバムに生演奏を加えるべきか、僕は迷っていた。しかしこの曲の準備が進むにつれて、そろそろ「潮時」かなと思った。人選は悩まなかった。mmmも坂本慎太郎バンドですがちゃんの演奏は知っていたから、話は早かった。あとは、演奏の希望をどう伝えるか。

冒頭のハイハットに対する僕のイメージはずばり、これだった。
João Gilberto / João Gilberto (三月の水)1973
フルセットで入ってからのドラムには特にお手本はないが、僕は基本、パンキッシュかつグルーヴのあるドラムが好きだから、その王道を行ってくれると信じていた。あえて僕が理想とするドラマーを挙げるなら、Ian Dury and the Blockheadsのドラマー、Charlie Charlesがそのナンバーワンだ。
New Boots And Panties!! / Ian Dury 1977
我々の希望を彼らしいフィルターに通して、すがちゃんはアルバムで聴ける通りの丁寧な演奏をしてくれた。嬉しい。

レコーディングの音色音質については僕は意外とこだわりがなく、「演奏したままが録れればいい」と思っている。しかし「演奏したまま」の音ほど難しいものはないのもまた事実で、今回のレコーディングでも、スタジオから家に帰ってプレイバックを聴いてみると少し思い違いがあったので、細かな修正作業をした。専門用語で申し訳ないが、ミリ秒単位でも位相が変わるとタイム感が違って聴こえるので、それを演奏した印象の通りに戻したかったのだ。ドラムが決まらなければミックスは進まないので、5分間の演奏に一週間近い日々を費やした。さすがにこの時は、アルバムが出ないんじゃないかと周りに危ない思いをさせた。

ベーシックが録音できてから、ホーンを加えたいとアイデアを出したのはmmmだ。フルートとフリューゲルホーン、二菅のアレンジ(和声を考えること)を書いたのも彼女だ。僕がしたことは譜面をきれいに書き直したことと、誰に頼むかを考えたことだけ。この曲には、Jazzyになりすぎず、また和声だけでなく演奏のグルーヴも分かってくれる人が必要だと思ったので、icchie に頼んだ。icchie はYOSSY LITTLE NOISE WEAVERでエマソロのかなり初期からイベントを一緒にやったり、トラックメイカーとして自分のレゲエ作品も作っている、信頼のおけるミュージシャンだ。2020年2月のリリースライブではワンホーンで参加してもらったが(mmmは歌とフルートを同時にできないから)、ハモりがなくても大きな拡がりを生んでいたのには驚いた。

ほとんどの要素がデモの中に「隠れていた」ものを見つけ出す作業だったのに対して、唯一そこにはない、それまでのステディな流れをぶち壊すようなギターソロのアイデアも、またmmmによるものだ。鉄の棒でエレキギターの弦を叩いて音を作っている。ライブでもこの「ナイスな棒」を使おうとしたが、ソロの瞬間に棒に持ち替える良い方法が見つからないまま、今に至っている。

Giants といえば当然、ジャケット画の「巨人」やTシャツのイラストにも触れたいのだが、分量が増えすぎるので、これもまたの機会にさせてください。

2020.05.31 Sun

CHASING GIANTS セルフレビュー (1) introduction -伸び縮みする時間-

mmm with エマーソン北村のアルバムCHASING GIANTSが2019年11月29日に発売されてから、半年が経った。この半年のうち後半の3ヶ月に起こったことは、みなさんと同様、このアルバムの展開にとっても予想だにしないことだった。アルバムを携えていろんな場所を訪れようと計画していた春から初夏のライブはほぼすべて中止となり、制作とツアーに明け暮れていた半年前が冗談のような、静かな日々が続いている。しかしその静けさは、一瞬のできごとが二度とは戻れない変化をもたらすような緊張感と表裏になっていて、まるで時間が伸び縮みしているような、不思議な感じの中で毎日が過ぎている。

一枚のアルバムが完成してから日が経つにつれて、その中に入っている曲たちの聴こえ方は、作っていた時とはどんどん違うものになってゆく。自分の「意図」にはなかったものが聴こえてきたり、ずっと気になっていた部分がある日ケロッと忘れられたりする。しかし今回CHASING GIANTSがたどっているリリース後の日々は、今までとはまったく違ったものだ。リリース直後の熱さとも、間隔が空いて客観的に見られるようになる日々とも違う、空白の期間。昨年あれほどの時間と労力を費やしたアルバムなのに、最近は僕に対して妙によそよそしい「そぶり」を示しているように思える時もあった。

しかし、ライブのない日々に準備運動のつもりで行ってきたいくつかの「宅録」(僕が関わる最近の作品はほとんど、自宅での録音・ミックスで作られている)作業を終えたあとで改めてCHASING GIANTSを聴き、振り返ると、いやその振り返りずらさのことを考えていると、この日々に繰り返し頭に浮かぶ様々なものごとや感情が、符合のように再びこのアルバムと結びつくのを感じる時がある。その符合を自分なりにたぐっておこうと思って、このセルフレビューを書くことにした。

アルバムで聴ける二人のデュオの特徴のひとつは「タイム感」だと思っている。曲のテンポのことはもちろん、同じ一曲という時間を共有しながら、それぞれが全く違った時間軸の上に立って演奏していることが、独特のタイム感を生み出していると思う。瞬間ごとの「今」を生きているようなmmmの歌と(自分で言うのも何だが)ずっと以前からこの先もまったく同じテンポで進むかのような僕の演奏。それがバンド演奏だと言われればそうなのだが、僕が先の見えない日々の中で感じている時間の「伸び縮み」は、こんな風にもともと、音楽が得意としていることなのだ。

そもそもポップ音楽のレコーディングというものが、数ミリ秒のタイミングの違い・数セントの音程の違いの中から「後世に残る」ものを選んでゆく作業だ。その時僕がいちばん大事にしているのは自分の「意図」ではなくて、自分の中にある「もやもや」したものを、できるだけそのまま形にすることだ。「もやもや」したものとは、言葉にならない動機と言ってもいい。どの分野でもそうだと思うが、確固とした意図が作品の隅々まで行き渡るような作り方よりも、「もやもや」だけを基準に選択を積み重ねるやり方のほうが、僕は好きだ。その方が「伸び縮みする時間」の中でより人に伝わるものを残せると思っているからだ。

CHASING GIANTSは今からちょうど一年ほど前に、ドイツ・ケルンのWEEK-END Festと、続くEUおよびUKのツアーが決まったことをきっかけとして作りはじめたアルバムだ。その意味では、大きな目標のもとに作ったというよりは、状況に急かされて進めたプロジェクトであったとも言える。しかしむしろそのために、ひとつひとつの選択にはその時々におけるmmmと僕の、言葉にならない「もやもや」が生々しく残されていて、その積み重ねがこの作品に二人の「意図」を超えた独特の色合いをもたらしていると思う。というかそうあってほしいと思っている(mmmも同様に思っていてくれたらいいなと思う。このセルフレビューは、mmmには相談せず北村一人で 書いています)。そしてその色合いには、まだまだこれから加えられるものがあるはずだ。
リリース直後では近すぎて言葉にできず、今後なされるかもしれない評価(オー ディエンスからの、また自分にとっての)は全く予想できない、この空白の「静かな日々」のうちに、書けることを書いておきたいと思っている。レコーディング時には忙しすぎて書けなかった制作日記的なことも、加えていきたい。

* * *

本来ならアルバム最初のトラックであるintroductionについて書くところが、このセルフレビュー全体のイントロダクションになってしまった。曲の方のintroductionは聴いていただければすぐわかる通り、WEEK-END Festの会場で流れる「ジングル」として制作されたものだ。僕のローランドSystem-100をいじりながら、mmmが「これ良い音」と言った瞬間にそれを録音し、あとからキーボードやTR-808のシンバルを加えた。僕は当初、このジングルをアルバムのどこかに「スキット」として入れようと思っていたが、mmmはこれを一曲目にしたいと言い、僕もしまいにはこれしかアルバムの始まり方はないように思えてきた。音源を持ってフェス前日にケルンに着くと、主催者から「このオケを使って出演者全員分のジングルを作って欲しい」と言われ、急遽観光をとりやめて、フェスの協力者でもあるネットラジオのスタジオで録音をした。だから実は、mmmの声で「Sun Ra Arkestra… 」とか「Eiko Ishibashi…」とか歌っているヴァージョンもあるのだ。mmmはすべての名前に即興でメロディをつけていった。そのどれもがひとつの曲になっていて素晴らしかったのだが、完成したファイルを日本に持ち帰るのを忘れてしまった。今もフェススタッフの誰かのパソコンにはそれが入っていると思う。

第一回だから特別に、レコーディング中には口に出さず、今でもmmmに話したことのない、あることを最後に書いておこう。
CHASING GIANTSには特に、目標としたアーティストやアルバムはない。僕自身が今の音楽スタイルの分け方にあまり興味がないというのもあるし、「エマーソン、時々mmm」というプロデューサークレジットが示すとおり、あらかじめ決められた方向にアレンジしてゆくよりも、方向性そのものを臨機応変にミックスしていった方が面白いと思っているからだ。しかし実はCHASING GIANTSの制作期間を通して、自分の頭にずっと浮かんでいたアルバム、参考にするというよりは、これの隣に置けるようなものになったらいいなというアルバムは何枚かあった。それは例えばこんなものだ。

ON THE ROCKS / EGO-WRAPPIN’ 2006
水 (D’eau) / sakana 1990
Ruth Is Stranger Than Richard / Robert Wyatt 1975
Libertango / Astor Piazzolla 1974

EGO-WRAPPIN’には演奏とアレンジで、sakanaには録音で深く関わったアルバムだから当然か。前者は15年前、後者は30年前と笑えるくらい古いが、自分の中ではこの二枚とCHASING GIANTSは一直線でつながると思っている。sakanaのアルバムとは音というよりも、アルバムの流れに対する考え方が(結果からは分からないかもしれないが)一致している。Ruth Is… は、ロバート・ワイアットが好きな方にはすぐ想像がつくと思う。長く聴いているアルバムだから、「宇宙人」のオルガンのディレイタイムなど、細部を詰める時に自然と影響が出る。ピアソラのアルバムはあまり覚えていなかったのだけどなぜか頭にあって、今これを書きながら数十年ぶりに実際に聴いてみたら、このアルバムは意外とポップに作られているところがああやはりそうだった、と思った。
しかし、僕が何を参考にして音楽を作っているかは、興味を持つ方がいらっしゃることも知りつつ言うが、どうでもいい話だ。
大事なのは「何に」影響を受けているかではなく、「どう」影響を受けているかだ。言いかえれば、自分にとって大切な「それ」を自分の中のどこにどう置くか、それをいい場所に置けるかどうかが、特に他人との共同作業である音楽ではとても重要なことだ。僕が大切なものを自分の中にどう置いているか、それはレビューの全体を通して伝わればうれしいと思っている。

2020.04.28 Tue

ソロ作品・自主レーベル作品 通販リスト

COVID-19 の影響でみなさん大変な生活を送っていることと思います。ライブのない日々に少しでもプラスになればと、僕からご購入いただける作品やグッズをまとめてみました。

すべての通販は、メールでお申込みいただけます。このページの右上にあるメールアイコンをクリックすると宛先アドレスの入った状態でご自分のメールソフトが起動します。twitter DM や facebook messenger でも OK ですが僕が見落とす危険があり、申し訳ありませんがお返事が遅くなるかもしれません。

お支払いは銀行振込、または PayPal でお願いしております。送料についてはパッケージによって異なりますので、個別にご案内いたします。

指定口座・アカウントへのご入金が確認され次第、アイテムを発送いたします。

今は、配送に関わる方々への負担を考えて、必ずしも到着の速さ優先で発送方法を選んでおりません。また、梱包も通常より手作り感が強くなる場合があるかと思います。あしからずご容赦ください。

今さらですが、僕の自主レーベル bubblingnotes について説明させていただきます。

僕が企画したエマーソンソロ(エマソロ)の作品のすべては、僕が個人で運営しているレーベル bubblingnotes からリリースしています。エマソロでも他レーベルの企画によって録音したものがあり、こちらは僕がレーベルからアイテムを預かって販売しています。

bubblingnotes は基本的には自分の作品しかリリースしませんが、mmm with エマーソンなど(ほぼ)自分のプロデュースによる作品や Manuel Bienvenu のように気心の知れた友人の作品はソロと同等だと思っているので、このレーベル名の下に発売することにしました。mmm も自分のレーベルから作品をリリースしているので、ぜひそちらもチェックしてください。

bubblingnotes からリリース済みの作品(このサイト内のリリース情報にリンクします)

1st ソロアルバム 「遠近(おちこち)に」2014 CD 在庫僅少 ¥2,500+消費税

2nd ソロアルバム「ロックンロールのはじまりは」2016 エッセイつきCD 在庫僅少 ¥2,000+消費税

これらからシングルカットした7inchヴァイナルは、すべて売切れです。

mmm with エマーソン北村 CHASING GIANTS 2019 CD 発売中 ¥2,000+消費税

bandcamp からのダウンロード販売も行っています。¥1,200

Manuel Bienvenu GLO 2020 CD 発売中 ¥2,800+消費税

bubblingnotes からではないエマソロ作品に、

バンコクナイツトリビュート 田舎はいいねEP 12inchヴァイナル 2018

があります。こちらは em records から発売されました。僕も在庫を持っていたのですが売切で、ひょっとしたらどこかのレコ屋さんにまだあるかも知れませんが、分かりません。

グッズでは、Tシャツの通販を承っております。

CHASING GIANTS 「巨人」T-shirt

(ご注意)今までのご購入ありがとうございます。おかげさまで2タイプ共に M 以上のサイズが売切れ、現在在庫があるのは下記のサイズのみです。ご注文の前に、最新の在庫状況をお確かめください。

オーキッド: XS/S

チャコール: XS/S

各色・各サイズともに ¥3,000+消費税

サイズについて:実際の大きさは通常の表示よりも1サイズちかく大きめに感じます(表示のS=実際のM、のような)。

また、mmm with エマーソン北村が 2018年に会場限定で発売したカセットテープも通販いたします。こちらは手作業でダビングしておりますので、ご希望があればご連絡ください。(ご注意)全4曲のうち3曲は CHASING GIANTS にも収録されています。

N/A Products NA009 (N/A Products は mmm の個人レーベルです) ¥1,000+消費税

よろしくお願いします。

2019.12.29 Sun

Manuel Bienvenu アルバム GLO 2020/1/29 発売!

2019.10.01 Tue

mmm with エマーソン北村「CHASING GIANTS」2019/11/27(水)発売!

詳しくは「emerson solo」コーナーのこちらをご覧ください!

2019.06.18 Tue

ナイロビ旅行記(8)エマソロライブ、書き残したこと

<エマソロライブ>

滞在の最終日である2019年3月9日(土)に、滞在中で初めてのエマソロライブを行った。この日の記憶はなぜか他の日とちょっと違っていて、思い出そうとすると少しふわっとした、現実離れした情景ばかりが浮かんでくる。ライブそのものは現実離れしていなくて、ナイロビだろうが下北沢だろうが、準備→本番→撤収という一日の流れはまったく変わらない。しかしこの日はずっと、セッティングをして精一杯演奏している自分と、地面から10cmくらい上で不思議なシチュエーションにいる自分とが同時進行しているような感じがしていた。

理由の一つは、ライブ会場となったThe GOAT Social Clubが、予想とは全く違った、今までナイロビで見たどことも似てない場所だったからかもしれない。このカフェはナイロビから北に約17km離れた(市内からUberで30分くらい。渋滞がなければ)Kiambuというところにある。現在はナイロビに通勤する人も住むこの街はなだらかな丘と灌木の林に囲まれていて、素晴らしく美しい。一見倉庫風の建物にあるカフェに入ってみると、そこは観光客向けでも地元向けでもない独特の雰囲気を持っていた。店内に飾られたアートや調度品はアフリカを基調にしているのだけどよく見るとクオリティが高く、それでいて敷居の高い感じがない。それもそのはず、ここは著名なアフリカ人画家とデザイナーのお二人が経営していて、お店は彼ら自身のセンスを示す拠点的な場所でもあるようだ。お客さんも黒人・白人・東洋人(日本人だけではない)が一つのグループになって来ていることが多く、彼らが話す様子も落ち着いていて、気取っていない。何もかもが素晴らしいのだが、自分にはここを分類できる基準がない。まあいいか、スタッフのみんなもフレンドリーだしごはんも美味しいから、自分のことをやるだけだ。

準備は問題なく進み、やがてライブ。本番前に少しだけ敷地内を歩いてみた。赤土と木々の緑のコントラストがとても印象的だった。ライブ前半は室内で演奏したが、お店の人々は何か言いたそうだ。店の奥は庭になっていて、どうもそちらに出て演奏してほしいのだが、機材が多いから言い出せなかったようだ。もちろん大丈夫ですと答えて休憩中に移動。後半は花が咲き乱れる美しい屋外でのライブとなった。
近くに住む日本からの駐在員ご一家も来てくれたが、主なお客さんは現地の人が多く、ライブがあると知らずに来ている人も多かった。僕としては理想的なシチュエーションだ。そしてご飯のために来たお客さんから帰りがけに「面白かった」と言ってもらえたのが、エマソロとしては本望であり、とても嬉しかった。

もう一つの不思議な出来事は、オーナーに紹介されてライブに突然参加してくれたオンディさん。普通のお客さんで来ていたのに、歌が歌えるから参加したいという。私の名はオンディです、というのを、私の歌うキーは「on D」です、という意味かと勘違いして、Dのコードを弾くことから始めた。曲も何も決めずに、お互いがアドリブで進めてゆく。その歌にはこれ見よがしなところが全くないのに、不思議とその場の時間に溶け込んで、素晴らしかった。演奏が終わっても話をしなかったし、おそらくプロのシンガーではないから今後も連絡のつけようがないオンディさん。今どうしているだろう。

アンコールにはケニアの曲をカヴァーしようと、出発前も滞在中もずっと悩んでいたのだが、結局選んだのはグルーヴィなBengaやオハングラではなく、Fundi Kondeの古いゆったりしたKipenzi Waniua Uaという曲だった。それに比べると、イケイケのヒップホップカヴァーを現地のライブでやり遂げたふちがみとふなとの精神力ははんぱないなあと、一週間前のことを思い出した。はるか昔のことのようだ。

同じく一週間前にレコーディングを担当してくれたショーンやChekafeでフラワーアレンジメントをしてくれたご姉妹、それにMariさんOtiさんのご家族も来てくれてちょっとしたパーティのようになった後、車でナイロビに戻った。先日の襲撃はこの辺で起こって、大変だったのと話をしながら、珍しく渋滞のない高速を走る。その窓から見るビルがシルエットになりかけていて、きれいだった。

<書き残したこと>

以上で僕のナイロビ旅行記は、終わりです。しかしこの旅行記は、ある時は日付ごと、またある時にはテーマごとにまとめたために、両方から抜け落ちたことがたくさんありました。以下それらを思いつくまま、順不同に書いていきます。

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よく考えたら普通は旅行記の冒頭にあるはずの、日本から・日本への移動のことを全く書いていなかった。今後旅行される方のためにまずは飛行機のことを。
東京からナイロビへの移動。僕は羽田を深夜に出発し、中東(僕の場合ドーハ)で一度乗り換える便を使った。深夜発だと出発日の昼をまるまる仕事や準備に使えるし(買い忘れていた鍵を買う時間もあった)、機内で寝て起きると自分にとっての朝が実際のドーハの朝と一致するので、時差をあまり感じなくて済むメリットがある。ドーハで乗り換えると一気に客席はケニアの人が増え、窓から下を見るとアラビア半島の砂漠が幾何学模様みたいだった。
僕はキーボード二台とサンプラーを持って移動するので、手荷物をどうするかはいつも大問題だ。ただしキーボードは小さいのでスーツケースに入れて、そのまま普通に預ける。サンプラーは機内に持ち込む。今回は手荷物に関する積み残しなどのトラブルにも会わなかった。ただし空港の税関では、スーツケースを開けるとキーボードやケーブルなどが現れるので毎回、色々と質問される。我々のライブが、主催ではないものの日本大使館の建物内で行われることが、税関職員とのやりとり上で役に立ったようだった(ライブのフライヤを持つようにとMariさんからアドバイスされていた)。
税関に限らずジョモ・ケニヤッタ国際空港の中はセキュリティチェック(という名目でいろいろと止められること)が多い。正直、街中の危険とされる地域よりも断然空港内の方が、イヤな空気だった。権力を持っている人とそうでない人との人間性の差は、こんなにわかりやく現れるものなんだなあ。
帰りもドーハ経由。午後にナイロビを発ち、一晩ドーハの空港で乗り換え待ちをする(この行程が安かった)。ドーハの空港は広いが分かりやすい。ただし発着便が多すぎて掲示板の更新が間に合わず、出発ゲートがギリギリになって分かることも。時間があるから空港内を散歩してゆっくり飲もうと思っていたがあらゆるものの値段が恐ろしく高く、結局バーガーキングと仮眠室で過ごした。ドーハの空港を歩いているのは外見からは「なに人」か分からない人が主流で、なぜか非常に落ち着く。
全くの偶然だが、僕がジョモ・ケニヤッタ国際空港から出発するその日に、アディスアベバからナイロビに向かって離陸したエチオピア航空302便が墜落した。同じ機体での墜落事故は前年にもインドネシアで起こっている。このような事故で犠牲になるのは大抵メジャーな路線の利用者ではなく、その地域に根ざした仕事や用事で飛行機に乗る普通の人々だということが、腹立たしい。

お金は、日本でUSドルを用意しておき、入国翌日にナイロビ市内のショッピングモールにあるショップでケニアシリングに両替。ほぼ、1ケニアシリング=1日本円の感覚で計算できる。クレジットカードを使ったのはナイロビ国立博物館の入館料だけだった(ただし今回僕は現地のお宅に滞在させてもらったので、ホテルなどの状況は分からない)。現地の人々の間では、電子マネーもかなり使われている模様。

ビール。第4回の食べ物の話の時に書き忘れた。ナイロビのビールはTuskerとWhite Cupの二種類がほとんど。どちらも、日本のビールとの違いは、キンキンに冷やされていない温度でも美味しいようにチューニングされていることだと思った(日本以外のビールはすべてそうかもしれない)。

滞在していたお宅近くの道を一人で歩いていたら、知らない女性に話しかけられた。その時の会話。
「ヘイだんな、話しない?あなた中国人?日本人?(日本人です)私に仕事くれない?私は今、週に1日しか仕事がないの(それは大変ですね。)。あなたは会社員?だったら私に仕事くれない?(いや、僕はツーリストなんで、、)あっそう、じゃあ、今私に100シリングくれない?100シリング(いや、僕もそこのキヨスクに行くところでお金持ってないんで、、)。あっそう、じゃあ、さようなら(あきらめるの早っ!)。」

滞在したお宅のお手伝いさん Veronica。ヴェロニカは一時間近くかけて近くの町から歩いてやって来る。9時に来てまず洗濯。庭に干して(すぐに乾く)、それから掃除。石の床をモップで拭いてゆく(これもすぐに乾く)。洗い物をして夕食の支度をし、翌日の豆を浸けたりして、4時か5時に帰る。曜日ごとに特別な仕事もある。一度僕の水筒を洗ってもらったが、洗剤をがっちり使ってすごい勢いでこすってくれた。僕の部屋も掃除してもらう。初めは部屋に入る方も入られる方も少し気まずくて、かといって部屋を出るのもおかしいので、二人とも押し黙って掃除をしてもらっていた。最後の方は結構打ち解けたけど。日曜日は休みで、その前日に会うのが最後になるから、土曜日の朝にしっかりとさよならのあいさつをした。

(7)再び街のこと、アーティストトーク、フェス へ

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The GOAT Social Club

2019.05.26 Sun

ナイロビ旅行記(7)再び街のこと、アーティストトーク、フェス

<中心地区を歩く>

この旅行記にも何度か出てきたCBDとはセントラル・ビジネス・ディストリクトの略で、政府機関や企業本社が集まる、文字通りナイロビの中心となる一角を指している。ここと、道一本隔てたダウンタウンとを合わせたエリアが、多分ナイロビで唯一、徒歩で都会らしさを感じることのできる地域だ。僕にとってはまず最初に歩いてみたいところだったが、MariさんOtiさんご夫妻はあまり積極的でない。やはり危険という理由から(いわゆる犯罪だけでなく、写真をとっていると官憲からとがめられ、金を要求されたり拘束されそうになることもあるらしい)だが、実際にどうかということはさておき、長年街の変化を目の当たりにしてきたご夫婦にとって、治安を含めてすっかり変わってしまった市中心部は、もはや足の向く場所ではないのだろう。その気持ちは、僕にもよく理解できた。

とはいえやはり一度はCBDを観ておかなくちゃ、ということで、例のアーティストトークまでの「待機期間中」のある日、三人で出かけてみた。

やはり来てみて良かった!CBDのそのまた中心にある郵便局や銀行本社など、独立前の建築と思われる古くてモダンなビル群。そしてビジネスマンから物売りまで、街角に居る大勢の人びと!ナイロビの他地域では見ない、ビシッとしたスーツで歩いている老人などもいて、とてもかっこいい。

続いて、旅行者には危険と言われるダウンタウンへ向かう。ところが、道を一本渡るだけであっけなくそのエリアに入ってしまい、「あれ、もうダウンタウンなの?」と思うくらい、風景はCBDと変わらなかった。…と思っていたら、最初に気づいた変化があった。

それは、音。車の音や人の声が高くなり、まるで騒音の隙間をぬって風景を見ているようだ。携帯屋、レストラン、通りの先にはイスラム風の建物も見える。市場のようだ。そしてダウンタウンの目抜き通りには思い思いのペイントを施したバスがズラリと停まっており、バスの前に立ったおっちゃんらが道行く人々に何やらアピールしている。ここは長距離バスの発着場所なのだ。

ケニアでバスは個人営業に近い形で運行されているらしく、車掌と客引き?を兼ねたおっちゃんらが「ウチのバスへどうぞ」と競う様子は、有名なのだそうだ。かつてはファッションリーダーの役割も果たしていたらしい(プランドものでキメた、90年代リンガラバンドの衣装に通じる発想だ)。そうした「客引き芸」のひとつなのか、おっちゃんらの鳴らす口笛?のテクが半端ない。唇ではなく歯か何かを使っているのかもしれないが、口をすぼめて出すリズミカルな音の大きいこと!何人ものおっちゃんが競って吹くその口笛が、重なっては街の騒音と同期して、確実にひとつのグルーヴを作っていた。写真が撮れなかったことより、これを録音できなかったことの方が悔やまれる。

Nairobi Odeon と書かれたかつての映画館(ネットで調べたところでは1950年代に建てられたらしい)を横目で見ながら短時間のダウンタウン歩きを終え、再びビジネス街へ。

ナイロビのランドマークであるケニヤッタ国際会議場へは一応押さえおくか程度の気持ちで向かったのだが、行ってみるとこれがまた僕の古ビルマニア心に訴える素晴らしいものだった。1970年代にヨーロッパ人の設計によって作られた建物はとても良く整備されていて、まるで当時の映画のよう。おまけに28階の屋上(戸外!)に登ることができるという。ビルだけでなく高いところも大好きな僕は、即決で展望エレベータのチケットを買った。

さっき歩いたダウンタウンがビルの間から見えている。ナイロビ駅のレンガ造りのヤード。日本大使館のあるアッパーヒル。どのエリアが何を目的とする地域なのか、一目瞭然に配置されていて昔のゲーム「シムシティ」の画面のようだ。中心部から少し離れると緑が増え、真新しいオフィスビルが建つ。クオナやレコーディングをしたスタジオは、そのあたりだ。遠くには、ンゴングヒルも見える。車で走り回っては、演奏したり楽器を運んだり人に会ったり買い物したり、そしてつい10分前までその喧騒にもみくちゃにされていた街が、指先でつまめるようなサイズで並んでいる。爽快な風景なのにちょっと寂しいような、何とも言えない気持ちになった。

ナイロビの街について、もう一つ書いておかなければならないことがある。それは「スラム」の存在だ。最大の「スラム」であるキベラ地区は、ショッピングモールの並ぶキリマニ地区の隣、幹線道路を超えてすぐのところにある。今現在も、水の調達にさえ苦労するような生活がそこにある。キベラで孤児やストリートチルドレンのための学校を運営している早川千晶さんからはそこでのライブのお誘いをいただいたのだが、スケジュールが合わず実現しなかったのは残念だった。幹線道路に入るジャンクションを通るたびに、建ち並ぶマンション越しにキベラが見えていた。キベラだけでなく、市内を走っていて「あれ、ちょっと雰囲気変わったな」と思うと、トタン屋根の家並みがすぐに現れる。高級マンションが増える一方でこういう生活はなくならない。そして日本からライブをしに来て、それを高いところからも低いところからも眺めている僕がいる。自分は一体、どこに属しているのだろうか?

<アーティストトーク>

3月8日金曜日、ついに Kuona Artists Collective において「Emerson Kitamura Artist Talk」が行われた。外国人の、しかも美術家でない人がトークをするのは相当珍しいとのこと。敷地の中庭にキーボードと椅子を出して、20人ほどが集まってくれた。ほとんどはここで制作活動をしている美術家だ。

テーマは、How African music inspired my music? アフリカの人々を前に一度自分のアフリカ音楽に対する理解を話して、それが伝わるのかどうか試してみたかったのだ。内容についてはまた改めてレジュメをアップしたいと思うが、自分が話したこととその反応を、簡単にまとめておく。

(1)まず僕が誰で何をしにナイロビに来ているか自己紹介したあと、自分の音楽はアフリカ音楽にインスパイアされてきたことを話す。

そして、日本のポピュラー音楽は欧米だけでなく非欧米の音楽に対してもオープンになった時代があったことを、実際の音楽をかけて知ってもらう。それがどう聴こえるか、アフリカ音楽の影響があると感じられるのかどうかも、教えてほしい。

時間がなくて二曲しかかけられなかったが、一曲目は:

トニー谷「チャンバラ・マンボ」。参加者は、みんな笑っていた。ラテンと講談のミックスは、よく伝わっていたようだ。

二曲目は:

暗黒大陸じゃがたら「クニナマシェ」。個人的にもぜひアフリカの街で、アフリカの人の前でじゃがたらをかけてみたかったのだ。この音楽は何に聴こえますか?「Hip Hop」「Funky」との答えで、アフリカ音楽という答えはなし。

(2)アフリカの音楽の構造について、僕が思っていることを、キーボードを弾きながら話す。リフがとても機能的にできていること、十六分音符のすべてのタイミングが公平に絡み合ってグルーブを生み出すことなど。ちょっと専門的すぎて、美術家には伝わりずらかったかも知れない。

(3)各パートが別々のことをやりながら全体としてひとつのグルーヴを作り出すのがアフリカ音楽やレゲエの特徴だということ。その典型的な例として「ベースライン」の話をする。ベンガでも特徴的だったベースライン。そこから話はレゲエにそれて、「ベースラインだけ聴くと何の曲だか全然わからない超有名曲」クイズを出す。これはMUTE BEATのベーシスト松永孝義さんが生前やっていた「持ちネタ」を拝借したもので、会話で盛り上がらなかった時の保険として用意していたものだ。予想通り、トークより演奏の方が盛り上がる。アンコールまでもらって、結局トークだかミニライブだかわからない感じになって終了。曲は One Loveでした。

(4)質疑応答。「アフリカ音楽を聴いた時、歌詞についてはどうでしたか?」という質問に、全く答えられず。ここでもまた第5回に書いた問題につきあたる。「歌詞は意味だけでなく音でも伝わることがある」と言いたかったが、上手く英語で言えず、しどろもどろになると「でも言葉のバリアを壊してゆくのは良いことだわ」と逆にフォローされる。

英語は下手だが、翻訳した原稿を読み上げるだけではさらに伝わらないと思ったので出たとこ勝負の英語で話したが、思ったより単語が出てこなく、やはり簡単な翻訳の準備はするべきだった。しかし下手でも、日本語から翻訳せずに話しているときの英語の方が自然に話せているという、見ている人からの指摘もあった。クオナのメンバーからも「良いプレゼンテーションだった」との感想をいただき、ホッとした。

<アフリカ・ヌーヴォー>

午後にアーティストトークが終わって、この日にはもうひとつやりたいことがあった。クオナで見かけたフライヤで知った、今回がまだ2回目というピカピカに新しいケニアの音楽フェス、Africa Nouveau http://africanouveau.com/ を観に行くのだ。

会場は市の西郊の競馬場。植民地時代のイギリス文化で競馬場は上流の人々が集う場所であったためか、静かな池と芝生とが非常に美しい。そこにステージやDJブース、出店のテントが並ぶ。アフリカ美術の展示にも力を入れていることと、飲食店のスタッフが会場内を回って注文をとる(ちょっとうるさい)ことを除けば、完全に日本のフェスと同じスタイルだ。ケニアで目にした風景の中で一番なじみのあったのが、おそらく欧米を参考にしたであろうフェスの風景とは何か皮肉だなと、昨夜の真っ暗なベンガ定食屋を思い出しながら、ナイロビで始めてのエールを飲む。集まっている人々はおしゃれで、初日のSupersonicスタジオで見て以来の「イケてる」人々であることは明らかだ。でも日本のような、ただお金があるだけの富裕層とは何かが違っているのも感じた。例えば、たまたまこの日が重なった国際女性デーのことがMCで取り上げられていたり、話してみてもコミュニケーションが前向きで、素直にいい感じなのだ。一緒にフェスに行ったMariさんは「ナイロビでこんなフェスが実現するなんて、なんだかしみじみしちゃう」とおっしゃっていた。組織だったイベントができたという以上に、そこに集う人々の雰囲気が、そんな感じを与えたのではないかな。

夕暮れのフェス会場で、今までに見たナイロビの風景を思い出しながら、ここにある格差のことを考える。

ナイロビにいてたくさんの人から「昔は良かった」という言葉を聞いた。昔はもっと治安が良かった、昔はバスが時刻通りに走ってた、昔はもっと面白い音楽があった、などなど。もちろん経済発展の恩恵は一部の人だけでなく、薄い形では多くの人の生活に便利さをもたらしていると思う。それ込みでの「昔は良かった」だと思うのだが、キベラに代表されるように、格差は縮まるどころか拡がるばかりだということもまた人々に、はっきり認識されている(ライブ2ヶ月前の2019年1月には、高級ホテルの入る施設がアルシャバブに襲撃された)。

そんなナイロビの姿をもはや「日本とは違って」と表現することはできないだろう。「発展/途上」という区分けで我彼を比べることは、もはや全く意味がなくなってしまったからだ。しかし同時に、「経済発展に伴う矛盾」とひとことで片づけるだけでは、そこから抜け落ちる暮らしがたくさんあることもまた確かだなと思った。

暗い食堂ですごい演奏をバックに無表情でご飯を食べる人々、街角で何やら大声で主張し合っている人々、ノーと言わないまま物事を進めたり進めなかったりする人々、フェスでハグし合っている人々、そして夕刻の坂道を歩く通勤帰りの人々。その全員が、それぞれのリアルな時間を生きている。僕がナイロビでわかったことは、それだけしかない。

(6)ついに生バンドに遭遇

(8)エマソロライブ、書き残したこと へ→

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ケニヤッタ国際会議場の屋上から
エマーソン北村 アーティストトーク(写真: Mari Endo)
フェス「アフリカ・ヌーヴォー」エントランス

2019.04.29 Mon

ナイロビ旅行記(6)ついに生バンドに遭遇

<Ketebul Music>

前回、アフリカの人々は自分たちの古い音楽をかえりみないと書いたが、多分唯一、ケニアのポップ音楽の歴史に取り組んでいる人たちがいる。ゴーダウン・アートセンター(GoDown Art Centre)の敷地内にあるケテブルミュージック(Ketebul Music)はレコーディングスタジオとレーベルを兼ねた組織で、1940年代から70年代までのケニアポップミュージックの音源や映像を集めたり関係者にインタビューをして、それをアーカイブとしてまとめる活動をしている。

僕がケテブルを訪れたのは偶然で、クオナと並ぶアートセンターであるゴーダウンを見に行った時、まるでジャマイカのスタジオのような雰囲気の建物があるので、思わず中に入ってスタッフに話しかけたのだ。ちょうどその時スタジオは停電していて、窓際で本を読む以外することのなかったスタッフは快く応対してくれた。壁にはボブ・マーリーやサリフ・ケイタの写真。スタジオにはミュートしたドラムセットにアナログのミキサー。先日のSupersonicとは対照的な内装と低予算の機材は、僕に正直「これこそアフリカ音楽のスタジオだ!」と感じさせるものだった。実際ここではさまざまなレコーディングが行われ、常にミュージシャンが「たまっている」ような場所だったそうだ。「だった」というのは、近くゴーダウンが改装される予定で、古い工場を改造したその敷地の建物(ここは「工場街」と言われる地区にあり、周りには自動車の修理工場がたくさんあって、部品取りのための車の残骸が路上に延々と並んでいた)からは次々とアーティストが転出しているところだったからだ。このスタジオはこの後、どうなるのだろう。

ケテブルで僕はRetracing Kenya’s Funky HitsというCD+DVD+本を買った。ベンガ、プロテストソングなどと並ぶアーカイブシリーズの一つだ。1ベージ目がジェイムス・ブラウンから始まっていて、納得!という感じ。1974年の彼のアフリカツアーに影響を受けてケニアでも多数のバンドが誕生し、その多くはルンバとアメリカのソウルの両方をレパートリーにして、ケニア国内だけでなくエチオピア等の隣国やヨーロッパまで、仕事のあるところにはどこにでも行っていたこと、そしてそのブームはディスコの波がナイロビへ及んだ時に終わってしまったことなど、本当に始めて知る歴史ばかりが書かれてあった。

<ついに生バンドに遭遇>

さて「待機期間」も三日目となった 3月7日木曜日、やっとクオナ・アーティスト・コレクティブから連絡が来た!アーティストトークは翌日金曜日に行うことに決定。さらに、訪問しているのが日本人ミュージシャンであることを知った中心人物の一人Kevin Odourさんが、僕を個人的に、地元で音楽が演奏されている店に連れていってくれるというのだ!しかもそれは「今夜」だと言う。三日間連絡がなかったあとでこれからすぐに来いとは、またもやケニアタイミング…もっともこの頃には僕もこのタイミングに慣れっこになっていたから、ケニアで一番したかったことが実現することに、否応なくテンションは上がるのだった。

クラブに行くメンバーはKevinさん、Otiさん、僕の三名。Otiさんの奥様であるMariさんが誘われなかったことが、僕には最後まで気がかりだった。音楽を聴きに出かけるのは「男同士」でなければいけないのだろうか(お店には女性客も多勢いた)?それともこれは僕への「おもてなし」だから?とにかく今は、先方のいう通りにするしか選択肢はない。真新しいコンバースを履いたOtiさんと僕は出かけた。

Kevinさんとの待ち合わせまでには時間があるから、Otiさんは髪を揃えたいと言い、ならばと僕も理髪店についていった。その店はAdams Arcadeというナイロビで初めてできたショッピングセンター(独立前にできたそう)にあって、他の「イオンモール」的ショッピングセンターとは雰囲気がまったく違っていた。古い郵便局、イスラム絨毯の店、店先で焼き鳥を焼いている肉屋、僕の実家にどことなく似ている日用品店などが並ぶその奥に、理髪店はあった。理髪師はOtiさんや他の客と何やら面白そうに話をしながら、バリカン一丁で髪を切り揃えてゆく。そのテクに驚きながら僕は、彼らの言葉が街の他の場所よりも一層聴き覚えのない響きになっていることに気がついた。彼らはルオ語オンリーで話し合っていたのではないかと思う。

クオナでKevinさんと合流。前の週に挨拶はしていたが、ちゃんと会うのはこれが初めて。他のクオナメンバーのようにニコニコせず、ゆっくり話す雰囲気は、独特の深みがあって僕は好きになった。あまり気軽にしゃべれる感じではないけれど。そして日も暮れて、ついにCBD(セントラル・ビジネス・ディストリクト)へ。明かりの落ちた街は夜の顔を見せていて、これがアフリカの都市なんだと思った。人出も多い。昼間はビジネスマンが携帯で話をしている歩道は、果物を売る露店で埋まっている。著名な彫刻家であるKevinさんは、この街でも有名人だ。駐車場から店に歩く5分ばかりの間に、「友人」から次々と声をかけられる。今の僕はKevinさんのお陰で彼らの「仲間」の位置にいるが、もし彼と一緒でなかったら、彼らには僕がどんな風に見えていただろうか。

この夜の主目的は、Ohanglaのバンドを観に行くことだ。オハングラはルオの音楽で、ネットで探すと太鼓やマラカス風の楽器を持って歌う伝統的なものが出てくるが、「今の」オハングラは打ち込みの、しかもコンピュータでなくヤマハのポータブルキーボードの内蔵音色をそのまま使ったトラックにのせて歌を歌うという、韓国のポンチャックや南アフリカのシャンガンエレクトロに通じる手法で作られている。チープな(僕はそう思わないが)機材で作られるそれらのサウンドはそれがポップスの中でも一層コミュニティに根付いた音楽であることを示していて、ハイスペックなコンピュータで作られるUSを頂点とする音楽とは対極の、もう一つの世界標準をなしているように僕には思える。それをバンド演奏してる現場というのはめちゃめちゃ楽しみだ。しかしKevinさんは、「バンドの演奏までまだ時間があるから、まず飯でも食いに行こう」と言う。はい、もちろん、ついて行くしか選択肢はないです。

足速に歩く彼らについてゆくのが精一杯で、地図も見れなければもちろん写真なんか撮れない。多分Tom Mboya通りに出たのだと思う。サファリコムの看板のある携帯ショップが入っている雑居ビル。セキュリティチェックを受けて石造りの階段を二階に上ると、ベースの音に不意を突かれた。ドラムス+ベース+ギター三人+ヴォーカル二人、計7人のバンド。食事に来たこの店にも、ベンガの生演奏が入っていたのだ。店は音楽を聴く場所というよりはテーブルが並んだ定食屋で、その隅でバンドは演奏している。客の中で黒人じゃないのはもちろん僕一人。結構年長者もいるバンドメンバーはちょっと死んだ眼をしていて、あの曲どうだったっけという風に相談しながら、明らかにノリノリではない感じで演奏している。それなのに曲が始まると、息ぴったりの男女ヴォーカルを始めとしてリズム隊からギターの絡み具合まで、CDで聴いていたベンガそのもののグルーヴとサウンドが出てくる!ぼろぼろのPAからベースが爆音で出て、マイクの立ってないドラムがとても近い音で鳴っている。僕がレゲエバンドやアフリカのバンドに感じる「あり得ないものを見ている」体験がそこにはあった。僕も一応ミュージシャンだから、日本であれば大抵どんなバンドでも、聴こえてくる音から個々の演奏がどう全体を構成しているか、自分の中で組み立てることができる。しかし今、至近距離で演奏するバンドを見ながら、それが全くできないのだ。それでいて全体のサウンドはまぎれもない「音楽」を表現している。グルーヴと音色で時間が曲げられてゆくような感じ。これが海外でバンドを見る醍醐味だ。ところが周りの客たちは、その演奏を見事なほどまったく意に介さず、静かにビールを飲んでいる。Otiさんによれば、来ている人はナイトライフを楽しんだりしない「普通の公務員とか」だそうだ。僕らも煮魚(ウガリ、スクマ付きで300Ksh=約300円)の骨を延々ほじりながら、何も言わずバンドを見続けた。Kevinさんは「こういう生バンドを入れる店は、ナイロビでもここくらいが最後なのではないか」と言っていた。水タンクで手を洗うふりをしてiPhoneのスイッチを入れ、演奏を隠し録りした。

「前座」のバンドがこんなだから、「メイン」のオハングラバンドはどんなだろうと期待して、クラブCity Platinumに向かった。Kevinさんが事前にマネージャーに連絡してくれたおかげでここも「顔パス」。しかしこちらのバンドは、正直微妙でした…。店の内装はクラブというより、80年代のディスコという感じ。フロアは7割がテーブル席で、3割がダンスフロア。そこに、ドラムス+キーボード二人+オハングラを特徴付ける金属の振りものや輪になった鐘をたたくパーカッション(音はそれぞれ、音量が100倍になったカバサとトライアングルといったところ。しかも叩くテクが半端ない)からなるバンドをバックに、歌手やダンサーがパフォーマンスをする。一人のキーボードがコードとベース、もう一人のキーボードが「ギター」を担当する。アフリカ音楽を特徴づけるギター、それをキーボードの内蔵音でシミュレートするのだ。どれだけデジタル好きなのか。しかしこの鍵盤ギター、音色はチープなのに、ギタリストがいるとしか思えない演奏をする。ベースはコード担当者の左手で、図らずもエマソロと同じ方法をとっているが、PAで無理に低音を上げていて、あり得ない程の音圧がある。パーカッションと相まって、正直うるさい。強いて良かった点をあげるなら「あ、このキーボード、ベースの音もギターも入ってるんだから、別にメンバーいらなくね?」という発想が、その音楽と分ちがたく結びついていることが発見できたことかな。バンドよりもむしろ、バンドの幕間にトークをするコメディアンが良くて、周りは爆笑していた(多分下ネタだと思う)。トークの合間に披露する歌も、メインのヴォーカリストより好きなくらいだった。ここでもお客は熱狂的に踊るわけでもなく、フロアでちょっと踊ってすぐテーブルに戻り、ビールを飲み、またフロアに戻るのを繰り返している。本当にこの人たちは「おとなしい」。しかしこの感じにも慣れてくると、パッと火はつかないけどじっくりと時間を過ごすこの流れが、彼らのいちばんの楽しみ方なんだな、と納得できるようになってきた。

先程のベンガ定食屋バンドとこの人力デジタルオハングラバンド。ナイロビの人々にとっては、定食屋バンドは死んだ眼で懐メロを演奏する消えゆく音楽形態で、クラブのバンドは日本人ミュージシャンにも見せられる新しいバンド、ということになるのかも知れない。しかし案の定、僕の心に残ったのは定食屋バンドの、歪んだ音響と素晴らしいアンサンブルの方だった。外側からの眼と内側の価値基準とは、どうして相容れないのだろうか。ごくわずか、ケテブルミュージックのような存在だけが細々とそれらをつないでゆくのだろうか。ひょっとしたらKevinさんはそんなことを全部知っていて、あえて両方を僕に見せようとしたのかもしれない。多分、そうではないと思うけど。なにも説明しないまま、彼は「友人」たちに挨拶されながら、Uberで帰っていった。

(5)音楽と、言葉について

(7)再び街のこと、アーティストトーク、フェス へ →

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Ketebul Music
オハングラライブのコメディアン
Adams Arcade の郵便局。もともとは切手の自販機?

2019.04.26 Fri

ナイロビ旅行記(5)音楽と、言葉について

<ミュージシャンの自分探し?>

ミュージシャンの中でも僕がアフリカに行くと言うと、民族衣装を着て太鼓をたたくような「プリミティブ」な音楽に触れにゆくのだろうとイメージする人がいる。今のアフリカでそんな音楽は、そのために企画されたアルバムの中にしか存在しないだろう。僕は1980年代からレゲエやアフリカ音楽が好きで演奏活動をしてきたが、それらを「プリミティブ」だと思ったことはない。むしろ、その時々の政治や経済に翻弄されながらもその歴史なしではありえなかった強さと美しさを持つ、とても現代的な音楽だと思っている。そして僕が良いなあと思う音楽は、そんな歴史が、言葉による説明ではなくて普通の人の楽しみの中にちゃんと「音」として反映されている音楽だ。そういう意味では、普段の日本国内での僕の活動とナイロビでの音楽の見つけ方とは、変わるところがない。たった十数日間の滞在でその全貌に触れることは到底ムリだったけど、自分なりに見て・聴いてきたケニア・ナイロビの「今」の音楽についてメモしておく。

<カーラジオ>

そもそも今のナイロビの人は何を使って音楽を聴いているのか?簡単なのに、結局答が分からなかったことの一つだ。かつて全盛を誇ったカセットテープは、ほぼ絶滅している。CDも、雑貨屋に併設された小さなコーナーで売られているのを一度見ただけだった。若い人は主に、ネットで音楽を聴いている(ということは、検索次第で我々も同じものを聴けるということだ!)。僕はといえば、一番多く音楽を聴いたのは、カーラジオから。何せ行き帰りで一日二時間以上を車で過ごしたから、ジャンルごとに分けられたたくさんのFM局から、ありとあらゆる音楽が流れてくるのだ。
今一番普通に聴かれている音楽はやはり、USAのポップスやラップ音楽にダンスホールレゲエやアフリカ音楽の要素を加えた、打ち込みアフリカンポップスだ。もはやサウンドプロダクションだけではどこで作られたか分からないが、繰り返しいろんな曲を聴いていると、何となく、彼ら好みのメロディーとテンポと音色が分かってくる。意識して聴くと見落としてしまうその「なんとなく」が、僕にとっては一番の発見だったかもしれない。この感じに慣れてくると逆に、ナイロビで演奏する自分の曲のテンポが違って聴こえてしまい、苦労した(驚くことに、すべての曲が遅く聴こえた。むしろ逆かと思ってたのに)。
FM局から流れるのはアフリカの音楽だけではない。レゲエ、ヒップホップにテクノ、ロックやジャズのチャンネルもある。ヒップホップの局はなぜか、90年代の「ニュースクール」を多くかけていた。レゲエはルーツからダンスホールまで素晴らしく幅広い年代のものがかかり、ホレス・アンディも聴いたし、ボブ・マーリーは一日一回、必ずどこかで耳にした。ロックやジャズはなぜかサイケでアヴァンギャルドなものがよくかかる。とろ〜んとした音色が好まれるのか。

<音楽と切り離せない、言葉について>

ある時イケイケの打ち込みを聴いていたら、Otiさんに「これはゴスペルだよ」と教えられた。これがゴスペル?僕らがイメージするものと全然違うけど…と考えて気がついた!僕はサウンドだけにとらわれていて、最も大事な要素である「言葉」のことを忘れていたのだ。そういえばレゲエでも現地のミュージシャンと話をしていて意外なのは、僕らが注目するアレンジや演奏についてはあまり意識してなくて、音楽といえば「歌の言葉」を指す場合が多いことだった。そしてケニア、というかアフリカンポップスの場合はさらに、歌詞の内容以前にその歌詞が「どんな言葉で」歌われているかが大きなポイントになるという。それを理解するためには、言語の種類や言い回しだけではなく、彼らの日常における言葉のあり方について考える必要がある(僕自身は彼らの言葉を理解しないので、人から聞いたり読んだりしたことの受け売りです)。

ガイドブックには「ケニアでは英語とスワヒリ語に代表される現地語をミックスした言葉が話されている」とあるが、実際には、話す相手、場や内容に応じてミックスの内容が大幅に違う。二人のナイロビっ子の会話を見ていると、英語寄りで事務的な問題を話し合ったあと、ぐっと現地語寄りになって冗談を言い合い(会話は大抵必要事項だけでは終わらず、世間話や冗談が加わる。これは見ていてすごくいい感じ)、最後は「Sawa(OK)」や「Asante(ありがとう)」を言い合って別れる。僕には、少しだけ聴き取れる会話がだんだん音だけのものに変わってゆくことで、それが分かるのだ。僕の大好きな広告看板でも、キメのフレーズだけ現地語を使っていたりする。そもそも現地語には、スワヒリ語だけでなく多くの「部族語」が存在する(部族というのは問題のある概念だと思うので、以下注意して使う)。つまり言語のミックスとは、内容の単純な「翻訳」ではなく、あることを「何語」のどんなミックスで言うのかがすでに、相手との関係や、話す内容がどんな位置づけなのかを示している。
さらに「シェン(Sheng)」のことがある。英語と現地語を混ぜて「イケてる」新語を生み出すことで、仲間感や世代を主張するもの。僕と同年代のナイロビの人ならば「今のシェンは、俺らのとは違うからわかんねーよ」というような感じ。

このような言葉の多様性は音楽にも反映して、曲がどんな言葉で歌われているのかを聴けば、それがどんな場面で、さらにはどんな聴き手を想定しているかまで、わかる人にはわかるということになる。結果、僕らにはサウンド部分だけが興味深く聴こえていても、彼らにとってはそれ以上に、グッときたり大したことなかったりするポイントが歴然としていて、音楽から伝わる情報の質は格段に違っているのだ。音楽を作る者にとっては直接に自分に関わってくる、大事な発見だった。

<ベンガ(Benga)>

僕が1980年代にアフリカのポップスに出会ったとき、その多くは西アフリカのものだった。ルンバという、コンゴ民主共和国・キンシャサで大きな盛り上がりを見せた音楽が一番好きだった(当時はリンガラポップスと呼ばれていた)。実は、ケニアなど東アフリカの国々の音楽について、僕はあまり詳しくないままだった。今回ナイロビに行くことが決まってから付け焼き刃的に探った結果、ケニアにもルンバに対応する盛り上がりを見せた音楽があり、それはベンガ(Benga)と呼ばれることを知った(エル・スール・レコードさんありがとうございました)。例えば下のジャケット、Misiani & Shirati Jazzがその代表だ(このレコードは80年代には東京でも売られていたとのこと)。軽やかなギターリフを中心として曲が進んでゆくことや、歌を聴かせるパートからダンスパートへと進行する長尺な楽曲構成はルンバと共通するが、四つ打ちのキックと、歌メロにがっちり対応した音数の多いベースが(音量的に)大きいこと、そして、ルンバに比べると曲のテンポが若干遅めなこと(FMラジオから感じたテンポ感に、どことなく共通する)が特徴だ。ナイロビにいるからには、ぜひこの演奏に、生で触れてみたい。

ベンガに加えて、僕のライブやアーティストトークのために、ケニアポップ音楽の祖と言われる(ケニアで初めてエレキギターを弾いた人という説も)Fundi Kondeや、African Twistで有名なDaudi Kabakaの曲をチェックして、弾けるように準備した。しかし実際、それらの曲を知っている人は少なかった(歌がないという理由もあったと思う)。ライブが終わってから幾人かの人に「知ってましたよ」と言われたくらい(じゃあライブ中に言ってよ…ホントに「おとなしい」人たちだ)。それに比べると、現在のラップ曲をとりあげたふちがみとふなとのカヴァー曲の方が段違いに知られていて、ライブでも盛り上がった。アフリカ音楽に限らずレゲエもキューバ音楽も、今現在その中にいる人の多くは古いものには価値を見いださないとよく言われる。それをオーセンティックと言って喜ぶのは、我々のような外部の音楽マニアだけなのかも知れない。ベンガも、街で聴くものはテンポ感とメロディを残してサウンドはどんどん変わっている。ポップミュージックだからそれで当然だと思う。
とは言え、正直なところを言うと、僕はやはり1940年代から70年代までの世界の音楽のうねりを反映した、生のバンドで演奏している「古い」ケニアのポップスが好みだなあ。それこそ我々外部の者にもさまざまな発見をさせてくれるその要素は、きっとこの後の現地のポップス作りにも活きてくると思うのだけど…

もう一つ印象に残ることがあった。彼らから音楽のことを聞いていると、「別の場所からやってきた人」の話が大きな位置を占めている。国の内外を問わず、西アフリカからケニアに来た人がルンバを伝えた、モンバサから来た人が、あるいはキスムから来た人が新しい音楽を作った、といったストーリーがよく語られる。普通の会話の中でも「あのアーティストはコンゴから来て」とか「ナイジェリアから今度ツアーに来るアーティストは」などどいう話をよく聞く。僕は出発前には、〇〇地方の音楽の特徴はこう、「〇〇族」の音楽はこうという風に、それぞれの音楽が別々に存在するような印象を持っていた。でも僕がイメージしていたよりもはるかに広く、近隣のタンザニアやエチオピアはもちろん西アフリカとも、昔も今もかなり頻繁かつディープにミュージシャンの行き来があったようだ。その事実は、僕の固定観念をかなり揺るがすものだった。もちろん地域ごとの音楽は独自なのだけど、その独自性は他のエリアと断絶することよりもむしろ、エリア間を人が動くことによって発展してきたのではないかと思う。
ある音楽の「中心」をなす特徴は往々にして、そのグループの「一般」の構成員とは言えない「外部」の人間からもたらされることがあるという。ジャズの発生やレゲエにおけるボブ・マーリーの立ち位置など、そう考えることで見えてくることがたくさんある。もっとも、ベンガのオリジナルについて聞くとケニア以外の人は「ルンバの影響を受けてベンガが生まれた」と言い、ケニアの人は「いや、ベンガがルンバに影響を与えた」と言う。ブルースマンの「あのフレーズはオレが発明した」という話に似ていて面白いが、どちらが元祖かという話に意味がなくなるほどざわざわとした、人とアイデアの行き来から生まれたということなのだろう。

(4)待つ。

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Daniel Owino Misiani and Shirati Jazz Benga Beat (1987)
ライブやイベント、フェスの告知