Column

2020.06.14 Sun

CHASING GIANTS セルフレビュー (9) 宇宙人

アルバムの中でも特に大切な曲。録音した日のことを思い出しながら聴くと今でも9分間分の体力を消耗した気になるが、今の生活の中で自分のよりどころが分からなくなる時、まっ先に聴きたくなる曲でもある。

mmmが十代の時に初めて作ったというこの曲はまず何よりも、彼女自身に向けて書かれている。この曲を書き、歌うことで、まず自分が救われる。そして同時に、自分のことを全く知らない誰かが、この曲に書かれていることを自分のことのように感じ、救われる可能性がある。それはポップソングそのものの本質でもあるし、音楽作りで一番大事にしたいことでもある。

この曲はすでにmmmのファーストアルバム「パヌー」で一度リリースされている。それなのに僕がこの曲をアレンジして再びCHASING GIANTSに収録したいと思ったのは、「パヌー」のヴァージョンに不満があったからではなく、この曲で歌われているストーリーはmmmの曲の中でも特に普遍性があると思ったからだ。完全なストレンジャーを好きになってしまったことで味わう、何億何万何千何百光年の孤独。ライブ慣れするより前の時代に作られた曲だから、今のmmmにとっては若干キーが高すぎた。しかし、楽に歌えるキーまで下げると何かが違ってしまうので、結局元のキーのままでいくことにした。

歌い手と共演者の関係がごまかせないものになるのは、こういう大事な曲を一緒に演奏する時だ。僕はmmmの歌をどう聴いているのか、mmmは僕の演奏に何を求めているのか。人間的な関係ももちろんだが、それ以上に自分の音楽観や人前で演奏することをどうとらえているかが、否応なく明らかになるし、またそういう演奏にならなければ意味がない。

mmmの弾き語りを観たことのある人なら、この曲の魅力は自由なタイミングで伸び縮みする、演奏の「揺れ」にあるとすぐに思うだろう。僕が加わる場合も、この演奏に「自由に」ついていくだけで、十分良いものになると思われた。でも、と僕は思った。それで本当に、この曲の持つ大きな時間の流れを表現しきれるだろうか?歌い手に合わせるだけの演奏というのは、その時はいい感じでも、すぐに歌い手に「おんぶ」するだけの演奏になってしまう。そうなると曲の伝わり方は平面的になってしまい、二人の演奏はいつまでたっても完成形が見えてこない。どうしたらいいだろうか?

歌い手と共演者の関係を考える時、僕がいつも頼りにする動画がある。クラシックブルースシンガー、ベッシー・スミスとピアニスト、ジェイムズ・P・ジョンソンによるデュオ演奏。宇宙人からかけ離れていると思われるかも知れないが、僕にとって音楽は常に、例えば「シンセを手に入れたジェイムズ・P・ジョンソン」を想像するようなことなのだ。

Backwater Blues / Bessie Smith (vocal); James P. Johnson (piano) 1927

もうひとつの大事な準備は、メロディをコードや小節の枠から一旦はずして、「1拍ごとに把握する」ことだった。mmmのメロディを最初から最後まで、休符を含めて言葉と一緒に譜面に書き出してみるのだ。そうしたら、自由なタイミングで揺れながら歌っているように聴こえるmmmのメロディが、実はかなりかっちりした時間軸の上にできていることが分かった。そして、必要なものといらないものが見えてきた。コード進行もほとんどいらない、打楽器もいらない。いるものはただ、ほぼ一種類のループだけということになった。ただしそのループは、mmmの自由なタイミングを縛るものであってはならない。ループ音楽で僕が思い出すのは、例えば高校生の時に友人から教えてもらった、こんなものだ。

A Rainbow in Curved Air / Terry Riley 1969

こうして「ブルースのように揺れながら、テリー・ライリーのように繰り返す」という僕の演奏方針ができた。タイミングの「読み」を求められる、難しい課題だ。mmmには、僕がいてもいなくても同じように、自由に演奏してほしい(これもmmm with エマーソンの演奏において常に言っていること)。だから録音はクリック(一定のテンポを刻む、メトロノームのようなもの)を使わない、9分間の一発勝負である。二人のタイム感をつなぐ上では、mmmの弾くエレキギターが役に立った。ポローンと弾いているだけに聴こえるこのギターも、歌の合いの手として、曲の流れをとてもよく表現している。オルガンは長年使っているヤマハのYC-10、足鍵盤でシンセベースと、アルペジエーターやノイズ以外はライブで演奏している。

実は、録音当日に「OK」とされたテイクは、今アルバムで聴けるテイクではなかった。アルバムで採用されているテイク(テイク1)は録音した日には、ほんのちょっと思った通りにできなかったとか、声がかすれたという理由で、僕も含めた二人の「演奏記録」から除外されていた。それがたまたま他の作業が「押し」たせいでミックスまで1ヶ月近く時間が空き、録音当日の記憶もすっかり薄れたころ(その日は真夏の暑い日だったし)、再び録音ファイルを開いてこのテイクを「発見」したのだった。冒頭の「僕は今日…」を聴いた時からすでに、僕はこのテイクの演奏に引き込まれていた。新鮮というのとはちょっと違う、音楽をやる「覚悟」のようなものが、他の「上手な」テイクとは断然ちがうのだ。mmmにそのことを話して、改めて聴いてもらったところ、彼女も同意見だった。それでこのテイクを採用して、ミックスをして、今みなさんに聴いてもらっているような宇宙人ができあがった。

演奏者の「覚悟」というのは、以前はよく言われたことだ。いかなる時でも音楽の受け手に対して「前を向く」姿勢、とでも言えるだろうか。mmmに限らずこの数年間、いろんな世代のアーティストとライブをしていて、この人の「覚悟」はまだまだだなあと思うことは、正直、ある。しかし同時に、「覚悟」の中身が90年代や00年代とはすっかり変わってきていることも、また感じる。音楽をとりまく状況の変化を考えれば、当然のことだと思う。だけどこの曲を、二人の「覚悟」を込めた形でまとめられたことは、きっと後で生きてくるのではないかと思っている。

この先さらに、我々の「覚悟」をめぐる状況は、どう変わっていくのだろうか。mmmの世代のミュージシャン達は、その中をどう生きていくのだろうか。mmmとの録音作業が終わって彼女が帰った後に頭に浮かぶことは、いつもそんなことだった。

宇宙人の歌詞を追っていると、いつもあることが疑問になる。結局「僕」は、宇宙人である「彼女」を見つけられたのだろうか。「僕」が光速でブラックホールに吸い込まれてゆくような間奏の後で、新しい歌詞はないまま、曲は終わる。「締め」のないのはmmmの曲の特徴だが、芸術的にはなくてもいいと思う反面、素直に気にもなる。
さて、その結果は…?

(追記)
ひととおりこの原稿を書いた後でふと思い出し、どうしても頭から離れないので書いておきます。
僕の中で最もこの曲につながっているアーティストは、ベッシー・スミスでもテリー・ライリーでもなく、遠藤賢司さんかも知れないと、今気がつきました!もちろんmmmの音楽上のテイストとは異なりますが…
エレキギター一本の弾き語りというスタイル、「宇宙」というキーワード、長尺の曲、そして何より「覚悟」ということを言葉でなく姿勢で感じさせてくださったのは、エンケンさんの演奏だったと思います。ありがとうございました。

Backwater Blues / Bessie Smith (vocal); James P. Johnson (piano) 1927