Column

2019.06.18 Tue

ナイロビ旅行記(8)エマソロライブ、書き残したこと

<エマソロライブ>

滞在の最終日である2019年3月9日(土)に、滞在中で初めてのエマソロライブを行った。この日の記憶はなぜか他の日とちょっと違っていて、思い出そうとすると少しふわっとした、現実離れした情景ばかりが浮かんでくる。ライブそのものは現実離れしていなくて、ナイロビだろうが下北沢だろうが、準備→本番→撤収という一日の流れはまったく変わらない。しかしこの日はずっと、セッティングをして精一杯演奏している自分と、地面から10cmくらい上で不思議なシチュエーションにいる自分とが同時進行しているような感じがしていた。

理由の一つは、ライブ会場となったThe GOAT Social Clubが、予想とは全く違った、今までナイロビで見たどことも似てない場所だったからかもしれない。このカフェはナイロビから北に約17km離れた(市内からUberで30分くらい。渋滞がなければ)Kiambuというところにある。現在はナイロビに通勤する人も住むこの街はなだらかな丘と灌木の林に囲まれていて、素晴らしく美しい。一見倉庫風の建物にあるカフェに入ってみると、そこは観光客向けでも地元向けでもない独特の雰囲気を持っていた。店内に飾られたアートや調度品はアフリカを基調にしているのだけどよく見るとクオリティが高く、それでいて敷居の高い感じがない。それもそのはず、ここは著名なアフリカ人画家とデザイナーのお二人が経営していて、お店は彼ら自身のセンスを示す拠点的な場所でもあるようだ。お客さんも黒人・白人・東洋人(日本人だけではない)が一つのグループになって来ていることが多く、彼らが話す様子も落ち着いていて、気取っていない。何もかもが素晴らしいのだが、自分にはここを分類できる基準がない。まあいいか、スタッフのみんなもフレンドリーだしごはんも美味しいから、自分のことをやるだけだ。

準備は問題なく進み、やがてライブ。本番前に少しだけ敷地内を歩いてみた。赤土と木々の緑のコントラストがとても印象的だった。ライブ前半は室内で演奏したが、お店の人々は何か言いたそうだ。店の奥は庭になっていて、どうもそちらに出て演奏してほしいのだが、機材が多いから言い出せなかったようだ。もちろん大丈夫ですと答えて休憩中に移動。後半は花が咲き乱れる美しい屋外でのライブとなった。
近くに住む日本からの駐在員ご一家も来てくれたが、主なお客さんは現地の人が多く、ライブがあると知らずに来ている人も多かった。僕としては理想的なシチュエーションだ。そしてご飯のために来たお客さんから帰りがけに「面白かった」と言ってもらえたのが、エマソロとしては本望であり、とても嬉しかった。

もう一つの不思議な出来事は、オーナーに紹介されてライブに突然参加してくれたオンディさん。普通のお客さんで来ていたのに、歌が歌えるから参加したいという。私の名はオンディです、というのを、私の歌うキーは「on D」です、という意味かと勘違いして、Dのコードを弾くことから始めた。曲も何も決めずに、お互いがアドリブで進めてゆく。その歌にはこれ見よがしなところが全くないのに、不思議とその場の時間に溶け込んで、素晴らしかった。演奏が終わっても話をしなかったし、おそらくプロのシンガーではないから今後も連絡のつけようがないオンディさん。今どうしているだろう。

アンコールにはケニアの曲をカヴァーしようと、出発前も滞在中もずっと悩んでいたのだが、結局選んだのはグルーヴィなBengaやオハングラではなく、Fundi Kondeの古いゆったりしたKipenzi Waniua Uaという曲だった。それに比べると、イケイケのヒップホップカヴァーを現地のライブでやり遂げたふちがみとふなとの精神力ははんぱないなあと、一週間前のことを思い出した。はるか昔のことのようだ。

同じく一週間前にレコーディングを担当してくれたショーンやChekafeでフラワーアレンジメントをしてくれたご姉妹、それにMariさんOtiさんのご家族も来てくれてちょっとしたパーティのようになった後、車でナイロビに戻った。先日の襲撃はこの辺で起こって、大変だったのと話をしながら、珍しく渋滞のない高速を走る。その窓から見るビルがシルエットになりかけていて、きれいだった。

<書き残したこと>

以上で僕のナイロビ旅行記は、終わりです。しかしこの旅行記は、ある時は日付ごと、またある時にはテーマごとにまとめたために、両方から抜け落ちたことがたくさんありました。以下それらを思いつくまま、順不同に書いていきます。

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よく考えたら普通は旅行記の冒頭にあるはずの、日本から・日本への移動のことを全く書いていなかった。今後旅行される方のためにまずは飛行機のことを。
東京からナイロビへの移動。僕は羽田を深夜に出発し、中東(僕の場合ドーハ)で一度乗り換える便を使った。深夜発だと出発日の昼をまるまる仕事や準備に使えるし(買い忘れていた鍵を買う時間もあった)、機内で寝て起きると自分にとっての朝が実際のドーハの朝と一致するので、時差をあまり感じなくて済むメリットがある。ドーハで乗り換えると一気に客席はケニアの人が増え、窓から下を見るとアラビア半島の砂漠が幾何学模様みたいだった。
僕はキーボード二台とサンプラーを持って移動するので、手荷物をどうするかはいつも大問題だ。ただしキーボードは小さいのでスーツケースに入れて、そのまま普通に預ける。サンプラーは機内に持ち込む。今回は手荷物に関する積み残しなどのトラブルにも会わなかった。ただし空港の税関では、スーツケースを開けるとキーボードやケーブルなどが現れるので毎回、色々と質問される。我々のライブが、主催ではないものの日本大使館の建物内で行われることが、税関職員とのやりとり上で役に立ったようだった(ライブのフライヤを持つようにとMariさんからアドバイスされていた)。
税関に限らずジョモ・ケニヤッタ国際空港の中はセキュリティチェック(という名目でいろいろと止められること)が多い。正直、街中の危険とされる地域よりも断然空港内の方が、イヤな空気だった。権力を持っている人とそうでない人との人間性の差は、こんなにわかりやく現れるものなんだなあ。
帰りもドーハ経由。午後にナイロビを発ち、一晩ドーハの空港で乗り換え待ちをする(この行程が安かった)。ドーハの空港は広いが分かりやすい。ただし発着便が多すぎて掲示板の更新が間に合わず、出発ゲートがギリギリになって分かることも。時間があるから空港内を散歩してゆっくり飲もうと思っていたがあらゆるものの値段が恐ろしく高く、結局バーガーキングと仮眠室で過ごした。ドーハの空港を歩いているのは外見からは「なに人」か分からない人が主流で、なぜか非常に落ち着く。
全くの偶然だが、僕がジョモ・ケニヤッタ国際空港から出発するその日に、アディスアベバからナイロビに向かって離陸したエチオピア航空302便が墜落した。同じ機体での墜落事故は前年にもインドネシアで起こっている。このような事故で犠牲になるのは大抵メジャーな路線の利用者ではなく、その地域に根ざした仕事や用事で飛行機に乗る普通の人々だということが、腹立たしい。

お金は、日本でUSドルを用意しておき、入国翌日にナイロビ市内のショッピングモールにあるショップでケニアシリングに両替。ほぼ、1ケニアシリング=1日本円の感覚で計算できる。クレジットカードを使ったのはナイロビ国立博物館の入館料だけだった(ただし今回僕は現地のお宅に滞在させてもらったので、ホテルなどの状況は分からない)。現地の人々の間では、電子マネーもかなり使われている模様。

ビール。第4回の食べ物の話の時に書き忘れた。ナイロビのビールはTuskerとWhite Cupの二種類がほとんど。どちらも、日本のビールとの違いは、キンキンに冷やされていない温度でも美味しいようにチューニングされていることだと思った(日本以外のビールはすべてそうかもしれない)。

滞在していたお宅近くの道を一人で歩いていたら、知らない女性に話しかけられた。その時の会話。
「ヘイだんな、話しない?あなた中国人?日本人?(日本人です)私に仕事くれない?私は今、週に1日しか仕事がないの(それは大変ですね。)。あなたは会社員?だったら私に仕事くれない?(いや、僕はツーリストなんで、、)あっそう、じゃあ、今私に100シリングくれない?100シリング(いや、僕もそこのキヨスクに行くところでお金持ってないんで、、)。あっそう、じゃあ、さようなら(あきらめるの早っ!)。」

滞在したお宅のお手伝いさん Veronica。ヴェロニカは一時間近くかけて近くの町から歩いてやって来る。9時に来てまず洗濯。庭に干して(すぐに乾く)、それから掃除。石の床をモップで拭いてゆく(これもすぐに乾く)。洗い物をして夕食の支度をし、翌日の豆を浸けたりして、4時か5時に帰る。曜日ごとに特別な仕事もある。一度僕の水筒を洗ってもらったが、洗剤をがっちり使ってすごい勢いでこすってくれた。僕の部屋も掃除してもらう。初めは部屋に入る方も入られる方も少し気まずくて、かといって部屋を出るのもおかしいので、二人とも押し黙って掃除をしてもらっていた。最後の方は結構打ち解けたけど。日曜日は休みで、その前日に会うのが最後になるから、土曜日の朝にしっかりとさよならのあいさつをした。

(7)再び街のこと、アーティストトーク、フェス へ

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The GOAT Social Club