Column

2019.04.20 Sat

ナイロビ旅行記(3)キャンセルされたイベント出演

<レコーディング>
 
大使館ライブの前日、3月1日のことだが(飛行機の遅延などのトラブルに備えてナイロビ到着日とライブ本番日の間に一日の余裕を持たせておいた)、Supersonic Africaというレコーディングスタジオでセッションを行った。同スタジオでエンジニアやプロデューサーをしているSean Peeversが2016年に行われたふちがみとふなとのライブを観てファンになり、次に来た時にはぜひ録音をとスタジオをコーディネートしてくれたのだ。
スタジオはクオナ・アーティスツ・コレクティブと同様にナイロビの西郊にある。瀟洒なエステート(邸宅のための大きな敷地)にいくつか建物があって、プロダクションやデザイン事務所、そしてこのスタジオが入っている。各業種が連携してアフリカ各地のコマーシャルフィルムなどを制作しているようだ。
スタジオに入って僕はつぶやいた。「もう、こんなスタジオは日本では作れないかも…」。アフリカのスタジオで録音という話からは全く予想できなかった、豪華なスタジオ。広いブースが2つのフロアに配置されていて、メインのミキシングコンソールは今や急速に使われなくなっているアナログの卓、しかもNeve(老舗ミキシングコンソールメーカー)の最新機種。パソコン+入出力装置だけのシンプルなスタジオが大勢となりつつある日本に比べて、デジタル面でもアナログ面でも先を行っている。内装もおしゃれで、落とした照明に赤と黒で統一された雰囲気は、僕が10年前に行ったパリのスタジオのよう。これまたフランス製のスピーカーから聴こえてくる音は、海外レコーディングだなと感じさせる、低音が大きいのにうるさくない、充実した音だ。
参加したのは我々三人とエンジニアSeanの他に、前回のライブを観て一緒に演奏したいと言ってくれたパーカッション奏者のWillieさん。ふちがみとふなとの曲の中から、これは?これは?と相談しながらレコーディングを進めてゆく。コンガやジェンベを中心に演奏するWillieさんは、サウンドチェックでは大きな音で叩きまくっていたのに、ふちふなの曲を聴いたとたんにその数分の一の音量になり、パーカッションソロを入れようと振っても「この音楽にソロはいらない。グルーヴが続いていた方が良い」と言ってやらなかったほど「おとなしい」人で、ここでもまた我々の「アフリカ人」パーッカショニストに対する先入観は覆されたのだった。ちなみに彼は、ケニア音楽の歴史の中で重要な役割を果たしている港町、モンバサの出身だと話していた。
 
録音された音源がどういう形でまとめられるかは、メンバー間でもまだ考え中。いずれ告知されることになると思うので楽しみにしていてください。
 
<キャンセルされたライブ>
 
実は、大使館ライブのあった3月2日にはもうひとつのライブ出演が予定されていた。クオナ・アーティスツ・コレクティブは美術家の集まる場所だが、月に一度、土曜日には(Satoと言う。シェン(Sheng)といって、英語のSaturdayと現地語をミックスしたもの)音楽イベントが行われる。いくつかのアーティストが出演するこのイベントに、ふちふなエマーソンも参加することになっていたのだ。しかし我々が日本を出発する直前になって、出演は取り消された。コーディネーターであるMariさんに事前の相談もないまま、当日の出演者リストから我々の名前が消えていたのだ。連絡をとったMariさんに対してクオナを運営する人々は、はっきりとは「出られない」と答えないのだが、「他の日にもライブはできるんでしょう?」というニュアンスをほのめかして、結局「これはNGという意味だろう」とこちらが判断せざるを得ない状況に追い込まれた。我々アーティストとしては、残念ではあるが受け入れるしかない。
仕方がないのでその日、我々とMariさん一行は、観客としてイベントを観に行った。ライブは行われており、Makademという有名なシンガーがニャティティという名の弦楽器で弾き語りをする演奏は素晴らしかった。最後は「4つ打ち」の打ち込み+各種タイコという、スタイルだけで言えば日本のフェスでも見るようなバンドが出て、コレクティブの構成員とその友人の観客たちは盛り上がっていた。我々もその時は、いきさつを忘れて楽しんだ。
 
Mariさんは「アフリカでは、物事がぎりぎりになって覆る」と嘆く。できないことを最後まで「できない」と言わず、直前になって依頼者に取り下げるよう判断させる。理由→結果という論理に沿ってまず自分の意見を主張する形のコミュニケーションではなく、イエス・ノーをはっきりさせないまま人間関係や「流れ」でものごとを結論に向かって持っていく。そんな物事の決定過程が、日常のやりとりから政治経済レベルにまで存在することが、この件をきっかけとして僕にも意識されるようになった。それは僕にとってはなんだか「日本的」でもあるが、それともまた違った得体の知れない壁のようなものでもあり、ノーと言わない「おとなしい」人々の、重層的な性格の一面を見た思いがした。
ただしこのイベントのキャンセルに関しては、僕はまた違った見方もできると思っている。実際に行ってみたイベントの雰囲気はとても良いもので、アーティストやさまざまな「人種」のお客がリラックスして自分たちの音楽を楽しむ場であった。いくら前回のイベントが好評だったとはいえ、我々は外部から来た、音楽傾向の未知数なミュージシャンである。もし立場が逆で、僕がイベント主催者だったらと想像しよう(この想像はこういう時、とても役に立つ)。我々のクオリティを認めないわけではないが、認めてもなおさら、この日のイベントの趣旨とのマッチングを、真剣に吟味するだろう。日本から来たというだけで軽いノリでブッキングするには、彼らの土曜日のイベントは(特にこの日はMakademという待望のアーティストの出る日)貴重な時間に過ぎたのかも知れない。ギリギリまで出演を断らなかったのも、イベントの方向性を最後まで測っていたためだとも受け取れる。
 
レゲエやアフリカンポップス、ヨーロッパの音楽だってそうだが、その地の政治や経済に翻弄されながら担われてきた歴史を持つ音楽には、オープンな構造がある一方で、人々によって磨かれてきた「ここはこうでなければ」という「好み」とか「勘どころ」が存在する。そして人々は、その好みをいかんなく発揮できる「現場」を、とても大事にする。見た目は日本のナチュラル系フェスと大して変わらないクオナのイベントでも、雰囲気はユルいながら、自分たちがそれによって救われることのできる自分たちのアートの重要性は、しっかり踏まえられているように思われた。日本で我々は、簡単にどこの文化でもピックアップできる(つもりになれる)ような環境にいるから、自分たちも海外に行けば無条件に歓迎してもらえると思いがちだが、やはり、本当のつながりを作ろうと思ったらそれなりのクオリティを伴って、こちらから手を差し出さなければならない。
もちろんMariさんはそんなことを承知で準備してきたから、突然のキゲウゲウ(翻る、覆るの意)は非常に残念だっただろうし、僕には、もし出演できていたらイベントにとっても貴重な機会になっただろう、それを逃すとは彼らももったいないことを、という位の気概もあるのだが、とにかくこのライブキャンセル事件は、ある意味普通にライブが実現していた以上にたくさんのことを感じさせてくれたのだった。そして、クオナの構成員は決して、自分たちのアートしか認めないような閉鎖的な人々ではなかったということは、その次の週のイベントで明らかになるのだった。その経緯もまた一筋縄ではいかなかったのだけど…
 
<Chekafe ライブ>
 
キャンセルとなったイベント出演の代わりとなるライブを、ぜひ組みたい。コーディネーターのMariさんにとっては本番4日前からの、バタバタにもほどがあるミッションである。Mariさんの必死の動きに対し、ナイロビで「IZAKAYA」と銘打ったレストランを経営する日本人の方から反応があって、ラヴィントン(Lavington)にある系列のカフェでライブのできる可能性が出てきた。しかし問題は、住宅地でイベントを行うことに対する市・警察の許可を取ることだ。MriさんOtiさんご夫婦の非常な苦労の末、ライブ2日前(!)になって許可が下り、大使館ライブの翌日、とても美しい庭と、元の邸宅を活かした建物が印象的なChekafeで三人のライブが実現した。
日本のカレンダーでは卒業・歓送会と忙しいシーズンなので昨日はどうしても来れなかったという在ケニア邦人の方々や、日本からケニアを旅行中の人がたまたま来てくれたり(いい旅行をしてますね!)、その隣で昼間からがんがんビールを飲み、ライブを観てくれたヨーローッパ系の一家が帰り際に「ウチでパーティーやる時来てくれる?」と声をかけてきたり(ふちがみさんが英語スワヒリ語でライブを進めていたから、我々をケニア在住だと思ったらしい)、メニューにはラーメンがあったり、オーナーと現地スタッフが並んで餃子の実演販売をしたり、何かと楽しいライブであった。そして日本人の多いライブだったからこそ、ひとくちに在ケニア邦人といっても多種多様な方々の居ることがわかった。大使館関係者から長く経済協力・社会協力に携わっている方々、お店の店長さんや同じ敷地で花屋さんを経営するご姉妹、日本人第一号のケニア獣医師(!)の方など、滞在している年数も住んでいる場所もケニアとの関わり方も、その方ごとに違っている。日本でイメージする「日本人」の枠線が、ここでもまた少しブレてくるのだった。
大使館ライブで盛り上がった「キゲウゲウ」を演奏すると、この日もカウンター奥の現地スタッフのみんなはノリノリだった。ライブの帰り際には彼らが検索した我々のMVをかけてくれ、寒い京都で撮影したMVがこんな形で聴けるとはと、感動した。
 
ここで早くも、ふちがみとふなとの来ケニアスケジュールは完了。翌日には飛行機に乗らなければならない。かなりの弾丸ツアーを敢行したお二人、お疲れさまでした!僕はこの次の週末までここに残って、エマソロライブと、懸案である「エマーソン北村アーティストトーク」の実現に取り組むのだ。

 

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Supersonic Africa Studio
Chekafe ライブ(写真:Mari Endo)

ふちがみとふなととエマーソン北村「キゲウゲウ」「マジシ」の動画についてはこちらを。

2019.04.14 Sun

ナイロビ旅行記(2)初めてのライブ

<街の構造>
 
経済発展によって、ナイロビの市域は拡がっている。国の中枢機関、大企業や高級ブティックが集まるブロック(Central Business District=CBD)と、旅行者には危険と言われているダウンタウンとは道一本隔てただけで隣り合っていて、ダウンタウンの中心にある長距離バス乗り場から街のシンボルであるケニヤッタ国際会議場までは歩いて5分ほど。この、市の中心エリアのすべてを合わせても、徒歩30分で一周できるだろう。しかし「本当の今のナイロビ」はその外側にあるといえる。かつては大きな邸宅だった敷地にオフィスビルやレストランが建ち、道路に沿って車で少し走るごとに、ちょっと多すぎるのではと思うくらいショッピングモールが作られている(あるショッピングモールには、フランスの有名スーパーCarrefourが入っていた)。しかしそれらはたがいに距離がありすぎたり、高い塀に囲まれていて中の様子がうかがえなかったりして、徒歩で移動するのはちょっと難しい。モールや主要な建物の入り口には必ずと言っていいほど警備会社のセキュリティチェックがあり、銃を持つ警備員(警官?)も普通だ。警備会社でいったいどれほどの雇用を生み出しているのか、考えたくなる。そんなわけでナイロビは、僕のように「初めての街に行った時はまず、地図など見ないでどこまでも歩き回る」ことを常にしている者にとっては、ややストレスのたまる構造になっているのだ。しかしそんな街でも、地元の人は普通に通勤や買い物をしている。一体、車を持っていない人はどうしているのだろうか?マタトゥやバスを利用したり、あるいは結構な距離を歩いているようだが、実際のところは分からない。ある夕方、坂の多いナイロビの街を歩いて帰宅する人々の長い列が、逆光の中で不思議なシルエットを作っていた。なかなか忘れられない光景だった。
 
<クオナ・アーティスツ・コレクティブ>
 
そんな「新しい街」のひとつ、キリマニ(Kilimani)というエリアの一角に、Kuona Artists Collectiveがある。ケニアや近隣国の美術家が集まって制作や展示をしている「芸術村」だ。邸宅だった敷地にコンテナを利用したアトリエ十数棟が並び、中央には広場や、ケータリングで食事のできる建物がある。いつも誰かが居て何かやっている感じは「部室」のようでもあるし、アートの断片が雑然と並ぶ様子は日本の「フェス」が毎日続いているようでもある。ただし、並んでいる作品はどれもクオリティの高いものだった。このコレクティブを運営しているのは、参加している美術家たち自身。その中心人物のひとりKevin Oduorさんは、ナイロビ市中心部のウフル・パークにある独立の闘士と女性の像を制作するなど、実力のある彫刻家である。僕は日本の美術家の活動環境を知らないから比較はできないが、とても意欲的な場所だと思った。Mari Endoさんもここを活動の拠点のようにしてらっしゃるので、僕らも楽器を運ぶ中継地点として使わせていただいたり、そして、ここでやりたい企画も持っていた。それをめぐって、いろいろと印象深いできごとが起こるのだったが。。
 
<最初のライブ>
 
ふちがみとふなととエマーソン、ナイロビでの初ライブは、到着して三日目の3月2日土曜日、アッパー・ヒル(Upper Hill)にある日本大使館内で行われた。大使館に併設されている日本広報文化センターJapan Information & Culture Centreのホールがその会場だ。我々のように事務所に属さないインディーなアーティストのコンサートを日本大使館内で行うのは貴重なケースだそうだが、大使館の方々は事前の打ち合わせから当日の機材セッティングまで、非常に前向きに協力して下さった。フロントアクトとしてナイロビに住む邦人のコーラスクラブが「マライカ」を歌ったあと、大使館職員のスーザンさんに流暢な英語で紹介されて、ライブが始まった。
ヴォーカルのふちがみさんはナイロビでスワヒリ語学校に通っていたことがあり、英語とスワヒリ語混じりで話をしながらライブを進めてゆく。言葉がストレートな形で音楽になる瞬間を大事にするふちがみとふなとのライブは、ふちがみさんのちょっとした喋りが曲を聴く上で大きなヒントになることがある。それをナイロビでも行えることは大きな強みだ。
 
海外でライブをする場合はやはり、その土地の音楽や話題を取り入れたいと思うわけだが、日本人(というか日本語で音楽を作っているアーティスト)の場合、やはり問題となるのは言葉をどうするかだ。現地語に寄せて準備するか、日本語で通すのか?実は僕は最近まで、後者の方が良いと思っていた。下手な現地語で音楽を補強するよりも、意味は伝わらないと割り切って日本語で自然に話し、演奏に集中した方が良いライブになると考えていたからだ。昔の「外タレ」のライブのいかにも「営業」ぽい日本語トークの記憶があるからかもしれない。しかし最近になって、イ・ランさんの字幕付きライブなど、日本でライブをする今のアジアのアーティスト達の日本語に対する非常な努力を観ていると、そうとも言えないんじゃないかと思うようになってきた。本来は言葉で補う必要などない音楽、しかし歌詞がある以上は言葉と切り離して考えられない音楽。この問題には僕もまだ答えが出てないのだが、少なくとも「音楽なんだから言葉なんかどうでもいいさ」といったお手軽な姿勢ではもはや良いライブはできないと思っている。ちょうどそんなことを考えていた時だったから、英語でMCをし、スワヒリ語の歌詞を日本語に訳して歌うふちがみさんのやり方は、とても刺激になった。
 
ライブの話だった。客席の8割はケニアの人、というか、非日本人のお客さん。「ケニアの人」にはアフリカ系もヨーロッパ系もアジア系もいるから、客席の見た目でお客さんの「人種」を判断するのは意味がないのだが、やはり、この人達に向かって演奏するのだと思うとがぜんやる気が出てくる。自分を囲っている「日本人」という枠線がぼやけてゆくような感じがして、これが海外ライブの醍醐味だなと思う。でも今日はちょっと違って、日本大使館のお客さんは、意外と「おとなしい」。日本のライブのような「おとなしさ」だ。しかし後で多くのナイロビの人に会ううちに、それが彼らの普通だということに気がついた。割とシャイというか、反応がソフトなのだ。客席の見た目で音楽に熱く反応するだろうというのは、アメリカやジャマイカのライブ映像に慣れてしまった我々の空想にすぎないのではないか。ある時点でそのことに気づき、改めて客席を眺めてみると、実は音楽がじっくりと伝わっていることがわかってくる。そうなるとこちらも実力を出せるようになる。そして今回のためにミュージックヴィデオまで作って準備した今のケニアのヒットラップ曲「マジシ」で反応が上がり、「キゲウゲウ」でついに大爆発!自分の演奏が聴こえないほどの大合唱になった。ふちがみさんは、今自分はケニアのラップにはまっていて、楽曲として本当に好きだからこの曲をやるんだと言っていた。その欲のない姿勢が逆にお客さんに火をつけたのではないかと思った。
コンサートの最後には、それまで客席にいた孤児のための学校の生徒達がステージに上がり、リコーダーアンサンブルの演奏を披露してくれた。こうして、非常に印象的なナイロビでの一回目のライブを終えた。
 
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← (1)ツアー概要、毎日の往復

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Kuona Artists Collective

 
ふちがみとふなととエマーソン北村「キゲウゲウ」「マジシ」の動画についてはこちらを。

2019.04.11 Thu

ナイロビ旅行記(1)ツアー概要、毎日の往復

<ツアー概要>
 
2019年2月末から3月上旬にかけて、ケニア・ナイロビに行ってきた。普通のケニア旅行ならば、サファリ(これ自体がスワヒリ語で旅行という意味)をして野生動物を見て、というのが定番コースだろうが、僕は十数日の滞在中にライオンにもサイにもキリンにも会わなかった。市内にあるナイロビ国立公園の脇を車で走りながら夕刻にダチョウを一度見かけたきりで、他に会った動物は滞在したお宅の犬と猫たち、それから部屋の壁にずっといたヤモリくらいだった。
京都を中心に活動するユニット、ふちがみとふなとと僕は「と」を一個増やした名前で2015年からライブを続けている。夏の西院フェス・冬のアバンギルドというのが定例だ。2016年アバンギルドでの「ある冬の夜に」にいらして、声をかけてくださったのがMari Endoさんだ。彼女は夫のOtiさんと共にナイロビに住み、美術を中心にケニアと日本のさまざまな文化交流をコーディネートしている。ご自身も版画を制作される。
日本語を大切にした音楽からすぐには想像できないが、ふちがみとふなとは1980年代後半、それぞれがアフリカ放浪の旅をしている時に現地で出会い、日本に戻ってきてからユニットを結成した経歴を持つ。Mariさんはその頃からのふちがみさんの友人でもあり、彼らはすでに2016年に第一回の「Homecoming(今回のイベントのタイトル)」を行っていた。第二回に向けて参加アーティストを増やすべく、名前が挙がったのが僕だった。Mariさんはすぐにでも第二回のイベントを開催したかったのだが、その後ケニアでは大統領選に伴って政治・治安のなりゆきが不透明になったため時間がかかり、ようやく今回のスケジュールを決められたのが2018年の春だった。
 
ツアーの概要は、2019年3月2日(土)日本大使館内のJapan Information & Culture Centre(広報文化センター)ホールでのライブ、3月3日(日)日本人が経営するカフェChekafeでのライブ、そしてふちがみとふなとが帰国した後の3月9日(土)ナイロビに隣接したキアンブ(Kiambu)という地域にあるカフェThe GOAT Social Clubでの僕単独のライブ(エマソロライブ)を行うというもの。その他に、市内のレコーディングスタジオSupersonic Africaでのセッションも行った。このうちChekafeでのライブと後に記すもう一件の企画については、いろいろ深い経験をさせてくれた紆余曲折があるのだが、とにかくも予定されたすべての活動を好評の内に終えることができた。
 
<滞在したお宅>
 
滞在させていただいたMariさんとOtiさんのお宅は、ナイロビ中心部から30kmほど離れた住宅地にある。平屋だが美しいお宅で、敷地の半分は庭だろうか。お宅の周りにはその後ナイロビでよく見かけることになる木肌の白い木(名前は何だろう)が立ち、庭にはハイビスカスやパッションフルーツが植えられていた。家の中は石の床になっていてとても涼しく、お手伝いのVeronicaさんが毎日モップで水拭きするから、とても清潔だ(言っておくが彼らは我々と比べて特別にリッチというわけではない)。公営の水道は止まったり、不当に高い料金を請求されたりするので使わず、5,000リットルの水タンクを庭に設置して民間の会社から月に約一回配達してもらい、トイレなどには別の雨水タンクの水を使い、そして飲料水は買っているそうだ(スーパーでは20リットルの大きなペットボトルに詰め替えで水を売っていた)。水道民営化後の日本を見るようだが、道でも大量の水タンクをバイクにくくりつけて運ぶ人を始終見かける。「水は、問題」がOtiさんの口癖のひとつだ。そんな苦労を知らない僕には、Mari-Oti家の滞在はとても快適。朝7時に明るくなると同時に聴こえる鳥の声で目を覚まし、ごはんを食べてでかけて、夜は時差(6時間遅い)の関係もあって早めに寝る、というありえないほど規則正しい生活をした。後半は結構乱れたけど。
 
<毎日の往復>
 
Mari-Oti宅とナイロビ中心部を往復する車から見る景色が僕の初めての、そして最も多く目にしたケニアの風景となった。上手く行けば40分、渋滞すると3時間。コンテナを積んだ長距離トラックやバスには思い思いの塗装がされていて、見ていて飽きない。途中何カ所かで、トタン屋根の小さな店が増えたと思ったら、道ばたに大勢の人が集まっている。荷物を持った人、手ぶらのひと、普段着の人、派手な服のひと、本当にいろんな人が何をするでもなく立っている。この後ナイロビのいたるところで、時間帯を問わずこの「人が集まってただ立っている」のを見るのだが、この風景は僕にとってアフリカそのものと言ってもよいほど印象に残っている。実は、ここは地域の交通の要所であり、人々はマタトゥ(中古の日本車を改造して小型バス化したヴァン)や、映画「マッドマックス」のように布で顔を覆ったバイカーが運転するタクシーバイク(二人乗り、時には三人乗りする)を待っているのだ。「何をするでもない」と見えたのは僕の側に彼らを「見る」状態がなかったからで、日が経ってすこし僕と彼らの時間の流れ方が「同期」してくると、彼らはドライバーと交渉したり、物を運んだり、おしゃべりしたり、誰もが自分のことを普通に行っていて、本当の日常の時間がそこにあるのだと分かってきた(たまに、本当に何もしてない人もいる)。日本に戻ってきてナイロビの記憶も薄れたなあと思っていたある日、大勢の人が同じ方向へ一斉に歩いているから何事かと思ったら、ただの通勤ラッシュだった。その行動が不思議に思えるくらい「ただ立っている人々」は知らないうちに僕に強い印象を与えていたのだ。
 
ナイロビから30km離れればかつては都会ではなかっただろうが、今やこの幹線道路沿いは、完全に普通の郊外である。セメント工場、鉄工所、SGR(ナイロビーモンバサ間を結ぶ、中国資本によって作られた最新鉄道)の高架、遠くにはきれいに並んだマンション群まで見える。沿道にある巨大ショッピングモールは、完全に「イオンモール」だ(人工の滝まである内部は、それ以上かも)。しかしそのすぐそばで、牛の群れを連れた人がいたり、畑で働く人がいる。そして、日本で言えば国道級の道なのに、人が思い思いに横断する。道沿いを歩いている人も、車との距離がすごく近い。そして意外に、トラブルにならない。渡る方も渡られる方も、ぎりぎりのところで上手に避けてゆく。この「ぎりぎりでトラブルにしない力」も、後々身をもって感じることになる。
 
あと、車の窓から見えたもので(なにせ、これが僕のナイロビにおける基本のものの見方なのだ)印象に残ったものは、広告看板。清涼飲料、車、住宅、病院、旅行、あらゆるものがキャッチーなフレーズと共に宣伝されている。そしてその雰囲気が日本と比べて、なんというか、「前向き」なのだ。僕が一番覚えているのは、優しそうな高齢者夫婦の写真を使った「引退後は、資産運用をしましょう」という看板。「資産運用を我が社に」とかではなく、広告を作っている側も本気で「資産運用って、大事ですよね!」と語りかけているような雰囲気は、どことなく昭和の日本に通じるものがあって、ひょっとしたらこれが経済成長ということなのかも知れないと感じたのだった。間違っているかもしれないけど。
 
ナイロビ市の中心が近づくと渋滞が激しくなる。車が少しでも止まるとすかさずやってくるのが、物売りのひとびと。バナナやプラムや水はわかるが、ネクタイや車のワイパー、さらには絵画まで売っているのはなぜなのか(でもネクタイは売れていた)。テニスラケットも売っているのかと思ったら、網部分に電流を流して蚊を取る(焼く?)アイデア商品だそうだ。交差点はラウンドアバウトだから信号はない。ここでも車同士は、ぎりぎりまで止まらない。盛大にクラクションを鳴らしながら、しかしなぜか事故にならない(何度か事故も見たが)。そうこうして、スタジアムの角まで来たら、いよいよナイロビ市内だ。
 
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2019.04.04 Thu

ナイロビ旅行記(0)イントロダクションと目次

ナイロビツアーで一番強く印象に残っているのは、赤みががった砂ぼこり。トラックが巻き上げて、車から入ってきて、街中にも、屋外でライブした後の鍵盤にも、乾いた空気の中で赤くて細かい土の粒子が、常に舞っていたような気がする。そして、もう一つ記憶に残っていることは、なかなか進まない物事。渋滞や、ショッピングモールのセキュリティに並ぶ列、そしてイベントの中止と再決定。はじめはびっくりして、少しイライラし、目に見えない重い壁のようなものを感じた後で、ある時から「やれることはやれる時にやっておく。できない時は、何もしない」ということを発見し、そうしたら逆に、このシステムをそれなりに機能させている人たちの力にかえってびっくりして、車の窓から見るマタトゥを待つ人の集団も、すこしばかりうきうきした気分で眺められるようになったのだった。僕にそんな変化をもたらしたナイロビの十数日を、ライブの報告と共に書いていきます。何回かに分けてアップするので、ここから各回に飛べるようにします。

<目次>


(0)イントロダクション ここです。
(1)ツアー概要、毎日の往復
(2)初めてのライブ
(3)キャンセルされたイベント出演

(4)待つ。

(5)音楽と、言葉について

(6)ついに生バンドに遭遇

(7)再び街のこと、アーティストトーク、フェス

(8)エマソロライブ、書き残したこと

2019.01.21 Mon

2月末から、ケニア・ナイロビに行ってきます。

2019年2月末から3月上旬にかけて、アフリカはケニアのナイロビに行ってきます!ふちがみとふなととエマーソンの三人、およびエマソロ単体で、ライブや現地のアーティストとの交流が予定されています。北村にとっては初めてのアフリカ!
スケジュールや活動の詳細は下記リンクをご覧ください。詳細が決まり次第順次更新します!
 
3月2日(土)Japan Information & Culture Centre でふちがみとふなととエマーソンのライブ
http://www.emersonkitamura.com/schedule/2019/03/2195/
3月9日(土)The GOAT Social Club でエマソロ単独ライブ
http://www.emersonkitamura.com/schedule/2019/03/2214/

2018.08.20 Mon

Rock Your Baby is included on compilation album Balearic 4

「バンコクナイツトリビュート – 田舎はいいね」EP から思わぬ展開が!ヴォーカルに mmm をフィーチャーした Rock Your Baby がイギリスのコンピレーションアルバム Balrearic 4 に収録されました!詳しくはこちらを。
http://www.emersonkitamura.com/solo/2018/08/453/

2018.06.29 Fri

「窓から」「雨の坂の足許」7インチ盤、7/25/2018 リリース!

昨年デジタル配信のみでリリースされた二曲を、新たに制作したジャケットと新たなマスタリングとで、7インチアナログ盤にしてリリースします!詳しくはこちら、 emerson solo コーナーの記事をご覧ください!

2018.03.13 Tue

僕の考えるパッタナー: 「田舎はいいね」をカヴァーして

em records の江村さんからこの曲のインストカヴァーを作って欲しいと言われたのはかれこれ一年前、2017年の春だった。実際に作業にとりかかったのは秋。
僕も映画「バンコクナイツ」を観た後だったから、二つ返事で引き受けた。しかし実は心の中では微妙なものも感じていた。「今回はアレ、越えられるかなあ……」という不安だ。
「アレ」というのはちょっと上手く言えないのだけど、あえて言葉にすると「非欧米の音楽を、自分が普段頼りにしている欧米ポップスの音楽語彙で制作すること」の微妙さである。
今までも何度か、そのような制作や演奏をしてきた。例えば沖縄、河内音頭、アイヌの音楽。素晴らしいアーティストや仲間のミュージシャンのおかげで、それぞれは楽しかったし、良い物が作れてきたと思う。しかし心の奥ではどこか、これで本当にこの曲の「勘所」をつかんでいるんだろうか、その場所と人に根付いてきた人々の心を分かった内容になっているんだろうかとの不安を、完全にぬぐえないままでもあった。
 
そもそも僕がレゲエ、アフロなど非西洋のポップスに興味を持つようになったのは、1970年代終わりから80年代頭にかけて起こったパンク・ニューウエーブ、特にイギリスでのそれの影響だった。そこには、アメリカのロックンロールやポップスが大好きなのだが、同時に、アメリカのポップス的な価値観には絶対に取り込まれまいとする強い意志が曲や演奏の端々に表れていた(当時自分がこう言えたわけではないが、その「感じ」だけはちゃんと受け取っていたと思う)。それらの動きがちょっと煮詰まったかな、という感じが出てきたころ、非西洋の要素を取り入れた「ワールドミュージック」がブームになった。その中でよく議論されていたのは「我々はその音楽を新しいと言ってもてはやしているが、それは彼らの音楽を、新たなやり方で搾取しているだけではないか」というものだった。その議論は特に大きな結論を見ないまま、音楽のトレンドの変化にともなって「リスペクトを忘れない」みたいな言葉に置き換わって何となく収まったけど、僕たちにない音楽を、単にアレンジ上の要素として加えるだけのやり方はしたくないという気持ちは残った。
問題は、では「単にアレンジ上の要素で取り込んだ」ものと「本当に相手の音楽を、彼らの気持ちに立って理解したもの」との境目はどこにあるのかということである。これがはっきりしないことによる「もやもや」が、冒頭で言った「アレ」の内容だったのだ。
 
「田舎はいいね」はリスナーとして聴くと、とてもインパクトがあって楽しい曲だ。しかも、パッと聴くと音楽的にも我々にとってカヴァーしやすい「分かりやすい」曲に思える。ところが僕は、制作者の耳でこれを聴いて、頭をかかえた。この曲のパワーの源がどこから出てくるのか、わからないのだ。「分かりやすい」のはミックス上目に(耳に)つくイントロのフレーズだけで、あとの演奏は非常に混沌としている。例えばもっと「純粋」なモーラムの演奏は、僕らにはまねできないがその演奏内容はとても明確だ。「田舎はいいね」はファンキーなドラムやピアノも入っていて僕らの知っている音楽に近いはずなのに、これを演奏で再現するだけではぜんぜん面白くないものになってしまうのだ。
 
そこで僕はまず、歌を完コピすることからはじめた。作るのはインストなのに。歌はもちろんお客さんがいちばん良く聴く部分であるが、アレンジと演奏の全体がそれを盛り立てるために向かっていく中心でもある。優秀な人がアレンジと演奏を担当しているならそれは必ず歌を目標にしているはずで、その目標を理解すれば演奏も理解できるのではと思ったからだ。
残念ながらタイ語はひとつもわからない(しかもタイ語というが、ひとつではないそうだ)。しかしそれを音と音程とリズムとで把握することはできる。「どんな音楽も、基本的な要素に分解できないものはない」というのが僕の考えで、例えば譜面に表わせない付点音符と三連符の中間のタイミングも、中間のどこのタイミングで演奏されているかは、譜面に書くのと同様のやり方で把握することができる。それは中途半端な精神論よりも、よっぽど良くその音楽の勘所を自分なりに把握できる方法だと思っている。ただし、コードやタイミングといった「予断」になるようなセオリーはミュートした状態でただ単に耳コピするから、手間はかかる。
 
こうして莫大な時間をかけて「このタイミングは微妙」という書き込みとカタカナのふりがながびっしり並んだ譜面ができた。
もう一つ、同じ作業をしたパートがある。それはベースだ。
ミックスではあまり良く聴こえないのだけど、「田舎はいいね」を聴き込んでいくうち、この曲の混沌すなわちパワーの源は、ベースにあると思うようになった。ドラムとピアノ、そしてホーンセクションは、欧米ポップスと同じコード解釈でできている。しかしベースは、時にはコードと合わず、かといって「民族音楽的」ではなく、あるきちんとした解釈に沿って演奏されている。
ここで、エマーソンのレゲエ好きが役に立った。ロックバンドなら音が外れていても、レゲエのようなグルーブの中でなら成り立つベースライン、というものがある。そして優秀なベースラインはジャンルを問わず、例えば歌とそれだけを抜き出してみると、音の高低、休符の入れ方などが、きれいに歌と合っているのだ。顔も人生も知らないベーシストの演奏だけど、これはそういうベースであるはずだ。
ピッチが微妙な部分はシンセでは再現できないけど、こうして、曲の頭から最後まで、クラシックのようなベースの譜面もできた(一番二番三番で演奏しているフレーズが違っていた。さすがにこれは踏まえることができなかった)。そして、ひとまずコードのことはあとまわしにして(キーボード奏者なのに……)、延々歌とベースラインのことを考えた。よくある「ロックステディ風トラックの上に、エキゾチックなメロディが乗る」もので済ませたくなかった。逆なのだ。ロックステディがその現場でやっていた、音楽要素のミックスの作業を、楽曲に即して再度ここで実行する。その結果は単なるロックステディ風にはならないはずだ。実家にあるヤマハの1970年代製エレクトーンからサンプリングしてきたリズムボックスを延々ながしながら。
 
ここまでが「田舎はいいね」に僕が費やした時間の、7割ほどである。コードも印象的なイントロフレーズも大切だが、それは気合いを入れて何テイクもかけないようにすれば、きっと良くなる。ライブでも、右手はメロ/左手はベースを同時に弾くことになるから、左手と右手のシャッフル度合い(付点音符と三連符の中間の、タイミングの傾き)がそれぞれ異なって難しいが、それを何となくひとつのパターンにそろえてしまっては、原曲の何か大事な部分をなくしてしまう。
 
「田舎はいいね」の混沌は、ざっくりいうと、アメリカのロックやポップスが好きで、新しくて楽しいことがやりたい気持ちと、それに捕われてたまるか、自分たちの音楽を作るんだという気概とのぶつかり合いから生まれる、混沌だった。それが演奏上で最も顕著にあらわれていたのがベース。ベースって、そういうパートなのだ。田舎はいいねのベースは、見事にそのぶつかりあいに勝っている。
 
制作途中に気持ちが煮詰まって、江村氏に相談したことがあった。そのとき江村氏は「パッタナー」という言葉をあげて、まさにこのようなことが1970年代前後のタイのプロデューサーの間で目指されていたことを教えてくれた。ならば僕も、自分のパッタナーをするつもりでこの曲に取り組めばいいのだと、目の前がパッと開けた気持ちがしたのだった。
もうひとつ、最も大事なことを言うと、「田舎はいいね」の歌詞とタイトルは、単に田舎を賛美するものではないそうだ。当時のタイではたくさんの人が経済的な理由から住み慣れた土地を離れ、都会に出て行った。都会で働き、田舎との格差から生まれる問題に疲れた心(先日のタイ爆音映画祭でも繰り返し繰り返し扱われていたテーマだった)にマッチするよう、生まれたのがこの曲だということだ。だから「田舎はいいね」と歌っていても、心はぜんぜんその通りではないのだ。良い歌ってそういうことですよね。これで言葉が分かったら最高なのだけど……

2017.09.18 Mon

配信リリース曲セルフレビュー「窓から」

エマソロに興味がある多くの人にとってはなじみの薄い名前かも知れないけど、エマソロは実は、キンクスから大きな影響を受けている。1960 年代から活躍するイギリスのバンドで、レイ・デイヴィスの名曲 “Waterloo Sunset” で歌われる風景は「知らない家」の後半にも出てくるし、「両大師橋の犬(両大師橋は上野駅近くの跨線橋。僕は勝手に Waterloo Station は上野駅のようなところだろうと想像している)」も、僕にとっては「waterlooモノ」の一曲だったりする。そしてこの曲、「窓から」というタイトルも “Waterloo Sunset” の一節 “Every day I look at the world from my window” から来ている。
 
「窓から」は「ロックンロールのはじまりは」の曲たちと同じ時期 -2015年の夏だったかな- にはもうできていた。「…はじまりは」には6曲しか入っていないのだから「窓から」も入れれば良かったと普通は思うだろう。僕もそのつもりだった。だけど、「…はじまりは」の準備を進めてゆくうち、収録曲内での「窓から」の位置が微妙になってきた。「…はじまりは」というアルバムに対する僕のイメージがどんどん「ざらっと」した、抜き差しならない感じのものになっていって、それを文章でも表そうとしていく一方で「窓から」は、人で例えると「いい人過ぎ」みたいな感じの立ち位置になって、ちょっと他の曲と並ばないかなあと思うようになってきた。「…はじまりは」がハードな曲ばかりという訳ではない。「中二階」のような調子イー曲もあるのに「窓から」は並べられなかった。バランスというのはそういうものなのかな。インディーズ(というか個人経営)の自由さというか、勝手をさせていただいて、結果「ロックンロールのはじまりは」は6曲+エッセイ+特殊ジャケットという形で完成した。
 
残された「窓から」。曲としては決して嫌いでなく、むしろ上手くできた方かなあと思っているくらいだから、これを眠らせておくのは良くない。たまたまエマソロ作品のディストリビュートをしてくれているウルトラ・ヴァイヴさんが新しく配信リリース専門レーベルを立ち上げるという話を聞き、そのラインナップに加えてもらうことで「…はじまりは」から間をおかずにこの曲を届けたいと思ったのが、今回のリリースのきっかけだ。アルバムには入らなかったけど、同じ頃にできているんだから「…はじまりは」ともつながりがあると思う。スピンオフとして聴いてくださっても良いし、こちらからエマソロに入ってフィジカルの作品に進んでくれても良い、そんなつもりで存在しているリリースです。
 
肝心の音楽のこと。古いカリプソやアフリカンジャズを中心にめちゃくちゃ幅広い音楽を発掘しているレーベル Honest Jon’s の名コンピレーション London is the Place to Me の、第2集だったかな、Sing the Blues という美しい曲があって、静かでもちゃんと流れているリズムがあって、全体はシンプルで、僕もそんな曲を作りたいと思ったのが発端だった(その目標はこの曲に限ったものでなく、すべての曲作りの上での目標だけど)。音楽としてはラテン・カリブ系になるのだろうけど、厳密に何のリズムを使っているのかはちょっとあいまいで、エマーソン脳内に存在する架空の音楽ジャンルということになるかもしれない。下手をするとうそっぽくなる恐れもあるやり方だが、ひとつひとつの要素〜例えばリズムパターン、コード、曲の流れのバランスなどが説得力を持てさえすれば、ジャンルとしてはヴァーチャルでも、伝わるものがリアルになるのではないかと今回は考えた。中間部分は何のジャンルだろう…じゃがたら?
リリース日に近かった今年2017年のフジロックではこの曲で大盛り上がりしてくれたのが、自分にとって大きな手応えになった。苗場食堂とお客さんに感謝です。
 
それで再びタイトルのこと。外では大嵐が吹いている。自分は本当は窓を蹴破ってそこに飛び込んでいかなきゃいけないし、飛び込みたい。一瞬外に出て暴れるんだけど、気がついたら自分はやはり内にいて、窓から外を見ていた。そんなストーリーも感じられる曲だけど、それは実は自分のことでもある。僕にはずっと、外側にコミットしたいと思いながら、同時に、窓を通して世界を見ているような感覚になる時がある。そんな自分がすごく嫌だったり、いつまでもそんなでいられるなよ、とも思うのだけど、同時にそれは自分にとっては、いろんなものを作ったり人と関係を持てたりすることの、案外基礎になっているのかもしれないと思うこともある。

2017.09.14 Thu

配信リリース曲セルフレビュー「雨の坂の足許」

なんとも情けない話だけど、リントン・クゥエシ・ジョンソンの Bass Culture をずっと聴いてきたのに、ごく最近になって初めて気づいたことがある。
アルバムのタイトル曲の冒頭 “Musik of blood black…” と歌いだす中でベースがダダダ…と下降してゆくのは、ジャケットにある通り、地下室への階段を降りてゆく様子を表現していたんだ!
なーんだ、降りてゆくことを表現するためには音が下降すればいいんだと、単純すぎる発見をしたのだった。
このところ、ラヴァーズロックのドキュメンタリー Blues Party を観たり、カクバリズムのラジオ番組で “Bass Culture” をかけたり、1970 年代のイギリスのレゲエが自分の中で何度目かの流行をしたので、よしそれでは、エマソロにはありそうでなかったマイナーキーのレゲエにしてみようと思ってできたのがこの曲で、だから下降するベースラインが過剰に出てくる。
下降といえばマイナーキーのブルースがある。マイナーキーのブルース進行は何というか教科書っぽくなるので微妙なんだけど、大好きなフランスのオルガン奏者 Eddy Louiss のやっているものはそんな感じがなくて、暗さと光の加減がすばらしく、そのこともあってブリッジ部分はマイナーブルースのスタンダード的なコード進行になっている(スカタライツの “Confucius” でもある)。
 
今年の梅雨の季節には、なぜかたくさんの坂を歩いた。エマソロツアーで訪れた酒田や今治や呉、それから夜の国会前。雨の中で足許に気をつけながらうつむいて歩いていると、踏みしめている足の下には何があるのだろうという思いにとらわれる。それは意外に力強いものだ。下降するイメージには”Bass Culture” の冒頭の、階段の下からあふれてくるベースの音のように、何かが沸き上がってくるイメージが組になっているような気がする。
 
ライブでは間奏のシンセモジュレーションによるノイズを、自作の「導電インクの迷路」で演奏する試みも始めた。これについてはまた別記事にするけど、何を描いても電気さえ通せばいい絵の図柄を「迷路」にした理由には、この曲でのモジュレーションに迷路から脱出しようとするような感じがあるから、というのも、ちょっとだけある。
 
Linton Kwesi Johnson のサイト